第百二話:肥前の熊(ポーズ・ボタン)
筑後の平野を埋め尽くす龍造寺軍の本陣。そこには、獲物を前にした獣のような殺気が満ちていた。
当主・龍造寺隆信は、肥満した巨体を床几に預け、鋭い眼光で届けられたばかりの一通の書状を睨みつけていた。
「……島津義弘から義久へ宛てた、挟撃の合図だと?」
隆信のしわがれた声が、天幕の中に響く。周囲に控える鍋島直茂ら重臣たちは、一様に押し黙った。
この書状は、小田軍との境で討ち取られた島津の伝令が、懐に隠し持っていたものだ。そこには、小田軍を薩摩の懐深くへ誘い込み、包囲網を完成させたという生々しい報告が記されていた。
「殿、これは好機とは言えませぬ。小田が島津を圧倒しておればこそ、我らが後ろから食う余地もございましょうが……島津がこれほど余力を残しておるとすれば、話は別です。不用意に踏み込めば、小田と島津の死闘に巻き込まれ、共倒れになりかねませぬ」
冷静な直茂の言葉に、隆信は鼻を鳴らした。
「小田の軍師……浪紫とか申したか。空を飛ぶ器まで操るという男が、こうも容易く島津の罠に嵌まるものか?」
「なればこそ、島津の底力が我らの想像を超えておるという証左。あるいは、この書状そのものが……」
隆信の脳内に、浪紫が意図的に配置した「不確定要素」が毒のように回っていく。
合理的判断を下す者ほど、矛盾した情報に足を止められる。龍造寺という巨大な組織が、進軍という処理を一旦停止した瞬間だった。
その時、天幕の外から兵の騒ぐ声が聞こえた。
「報告! 南の空に、またしてもあの方角を指す巨大な火の玉が浮いております!」
それは、真田信繁が熱気球から放つ、小田本陣への合図を装った光であった。
隆信は立ち上がり、南の空を睨んだ。
「……島津はまだ死んでおらぬ。いや、死んでおらぬどころか、何かを仕掛けておるな。全軍、進軍を止めよ。斥候を倍にし、事の真偽を確かめるのが先決だ」
龍造寺の進軍が、完全に止まった。
その報告を数里先で受け取った浪紫は、静かに眼鏡を上げ、眠りにつく兵たちの背中を見つめた。
「……リブート(再始動)までの時間は稼いだ。これで、兵たちの休息は完了する」




