第百話:論理の盾(リスク・ヘッジ)
島津義弘、捕縛。
九州最強と謳われた「鬼」を、小田軍の重囲の中に沈めた功績は計り知れない。だが、本陣に戻った浪紫零也の表情に安堵の色はなかった。
「……戦後処理に入る前に、厄介な横槍が入ったな」
浪紫は、捕縛された義弘の身柄を菅谷政貞に預けると、すぐさま軍議の机に、周辺の勢力図を広げた。
天羽源鉄斎が、重い足取りで入室してくる。
「浪紫殿、島津の残党は真田殿が空から監視しておりますが……龍造寺の先遣隊、既に筑後の境を越えたとの報せです。奴ら、島津が倒れるのを待っておったのですな」
浪紫は眼鏡を押し上げ、手元の紙に素早く数字を書き連ねた。
「源鉄斎殿、我が軍の今の状態は? 弾薬の備蓄、兵の疲弊度を教えてください」
「正直に申せば、芳しくありませぬ。島津の執念に付き合わされ、兵の八割は泥のように眠っております。今、龍造寺と正面からぶつかれば、勝てたとしても小田家は行動不能の打撃を受けましょう」
浪紫はふっと息を吐き、椅子代わりの床几に深く腰掛けた。
(……疲弊した軍でまともに当たるのは、費用対効果が低すぎる。龍造寺隆信――通称『肥前の熊』。彼がこのタイミングで動いた理由は、合理的に考えれば二つか)
浪紫の思考が、高速で過去の記録を解析し始める。
「一つは、我らが島津を食った直後の隙を突いた、横取りの類。もう一つは……誰かが彼に、この機を教えた可能性がある」
「誰かが、だと? 以前のように顕如が裏で糸を引いておるのか?」
源鉄斎の問いに、浪紫は首を振った。
「いえ、顕如は既に毒気を抜かれ、今やただの仏僧。彼にそんな余力はないでしょう。となれば、別の何者かが、龍造寺に『今動けば利がある』と情報を流したと考えたほうが自然です」
浪紫は筆を執り、龍造寺軍の進軍速度から逆算して、接触までの時間を算出していく。
(幸い、彼らはまだここには到達していない。ならば、衝突する前に奴らの『計算式』を書き換えるまでだ)
「源鉄斎殿、戦わずに勝つ、あるいは戦う前に相手の戦意を削ぐ策を練ります。龍造寺隆信という男が何を欲しがっているのか、その欲望の形を徹底的に洗い出しましょう」
浪紫の脳内では、未だ見ぬ龍造寺隆信への交渉案と、もし決裂した際の罠の設計図が、同時並行で組み上がっていく。




