第五十四話 一月の蒼穹(そら)
大阪城では既に江戸へ退く準備が進んでいた
将軍である慶喜は先に江戸へ向かっている
敗戦したとはいえ、かなりの軍隊が残っていた
彼らも江戸に戻り、新政府軍を迎え撃つための準備をするようだ
移動は船で大阪から太平洋を日本列島に沿って江戸に入るのだ
この船は蘭学を学び軍事留学を得た大鳥圭介率いる軍が持つ軍艦である
土方「そういう訳で、俺たちもそれに乗り合わせる事になった。出立は三日後だ」
永倉「大鳥圭介って確か蘭方医の助手をしていたと聞いたが、異国に渡って西洋医学と軍事まで学んで来たんだろ。こいつは大物なだな。どうやって交渉したんだよ」
瑠璃「新八さんって、実は教養あるんですね」
原田「ははっ、見た目と中身が全然違うだろ」
永倉「なんだよ左之、こんな時ぐらい持ち上げろよ」
土方がどのような手段を使ったのかは分からない
だが、彼の交渉術は並ではない
あの新選組の組織を造り上げ、統括したのは近藤ではなく副長である土方なのだ
山崎「副長!島田からの緊急報告です」
山崎が島田からの文を土方に渡す
そこには新選組の動きと、井上源三郎の怪我の事が書かれてあった
土方の表情が硬くなり、眉間の皺が濃く刻まれた
原田「土方さん、何かあったのか?」
土方「源さんが危篤だそうだ」
全員「!?」
大阪に入るまでの道中、残党から銃撃され子どもを庇って撃たれたのだ
沖田「近藤さんたちは今何処にいるんです!」
瑠璃「土方さん、急ぎましょう!井上さんを救わなくちゃ!」
斎藤「副長」
永倉「土方さん、時間がねえ」
藤堂「土方さん!」
土方「煩せえ!分かってるんだよ、行くぞ!」
山崎の案内で近藤らが駐留している場所に向かった
松本良順の屋敷である
井上さん大丈夫、私が助けるから頑張って
祈るような思いで走った 井上の温かい笑顔を思い出しながら
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近藤「松本先生、どうですか源さんの具合は」
松本「ああ、弾は何とか取ったよ。しかし、出血が止まらない。力は尽くしたがあまり時間はないとお思いください」
近藤「そう、ですか・・・部屋に入っても?」
松本「構いません。親しい人を呼んであげてください」
近藤、山南そして甥の井上が部屋に通された
背を撃たれた為、俯せのままで寝かされている
井上「おや、勇さんかい。なんだい、そんな辛気臭い顔をして」
勇さんかい・・・その呼び方は試衛館時代を思わせる懐かしい響きだった
近藤「源さん、酷い目にあったな。具合はどうだい」
井上「ああ、だいぶん良いよ」
山南「そうですね、顔色が少し戻りましたか?あまり我々を驚かさないでください」
井上「はは、流石の山南くんも肝を冷やしてくれたかね」
甥 「叔父さん!」
井上「何を泣いているんだ、組長補佐とあろう者が。これくらいの事で情けないね」
源三郎の口調はいつもと全く変わりなく、穏やかに諭すように語られる
実際は青白く血の気が全くない 骨ばった首筋が余計に目立っている
痛むだろう、苦しいだろう、死への恐怖もあるだろう
しかし源三郎は微塵もそれを感じさせない
井上「勇さん、すまないが少し眠らせてもらうよ。これ(甥)の処遇はあんたに任せるから良いように使ってやってくれ。山南くん、暫く新選組から離れるがいいかね」
近藤「ああ、目が覚めたらうんと働いてもらうつもりだよ」
山南「ええ、不在の間はお任せください」
井上「すまないねぇ、恩に着るよ。泰助、武士はね涙を見せてはいけないよ。なあにそのうちまた会えるさ・・・」
そう言い終わると、源三郎は眠るように瞳を閉じた 享年四十歳であった
源三郎の体は清められ、仰向けに身体は戻された
誰かが廊下を走る音がする 近藤が部屋を出ると
土方「近藤さん!」
近藤「トシじゃないか、皆も一緒か!どうして此処に」
島田「勝手な真似をして申し訳ございません。私が知らせました」
近藤「そうか」
土方「源さんは」
近藤「・・・」
近藤はゆっくりと首を横に振る
瑠璃「嘘です!井上さんは死にません、私が、私が助けますからっ」
瑠璃は近藤を押しのけて部屋に入る
そこには真白の着物を着せられた井上が横たわっていた
瑠璃「井上さん、聞こえますか?瑠璃です。すぐに助けますから」
山南「瑠璃くん!」
山南が制するのも聞かずに、瑠璃は一気に気を高め黄金色の眩い光で井上を包み込む
背に埋まった弾はない、傷口を塞ぐ、細胞の再生・・・再生
再生しない!
瑠璃「心肺停止からどれくらい時間が経ちましたか!」
山南「四半刻(30分)は過ぎました、もういいのですよ」
瑠璃「嫌です、諦めません」
更に気を高め心臓を動かそうと試みる 何度も何度も試すが井上は反応しない
誰も瑠璃を止めようとはしなかった
彼女が納得するまでは止めても無駄だと誰もが知っていたからだ
瑠璃「井上さん、黙って逝ったらだめですよ。目開けてください、笑ってください。井上さん」
瑠璃は消え入りそうな声で井上に語りかける
その時、僅かに口角がピクリと上がり笑ったように見えた
いくら神の力を持っているとはいえ、死んだ者を生き返らせる事は許されていない
瑠璃「どうして?まだ温かいのに・・・」
瑠璃の目からはらはらと涙が落ちる 声もなく只静かに流れ落ちる
武士は涙を見せてはならない、皆の代わりに泣いているのだろうか
側に、井上が身に着けていたものが並べて置かれてあった
その中には浅葱色の羽織と誠の鉢巻もあった、井上の鉢巻には額あての鉄が入っていない
瑠璃はそれをそっと手に取り、幾重にか折り自分の腕に巻いた
静かに部屋を出、縁側に座る ぼうっと晴れた空を見上げた
近藤「瑠璃くん」
瑠璃「近藤さん、力になれませんでした」
近藤「いや、十分君は源さんの力になったさ。源さんの誠と一緒に後の事は頼んだぞ」
瑠璃「・・・はい」
一月の晴れた空は心とは裏腹に澄んでいた
井上源三郎の笑顔のように
正しくは大鳥圭介は陸軍で、海軍は榎本武揚です。でも大阪からの移動は大鳥圭介が持つ軍艦にしてしまいました。




