第16話:刺激的な非日常 後編
「おかしいなぁ……中に誰かいるの? 白河さん? どうして鍵を閉めてるの?」
ガチャガチャと鍵のかかったドアを開けようとしながら知った声に呼びかけられた。
その声を聞いた瞬間に、心臓が凍りついた。
返答するよりも先に、白河に『早く服を着ろ』と口パクで伝える。
「誰もいないの? えっと……鍵、鍵……どれだったかな……」
「ちょ、ちょっと待って! 今開けるから!」
「あれ? その声は……真岡くん? なんで真岡くんがいるの?」
「そ、それは色々あって……あ、あれ……鍵がなんで閉まってるんだろ……」
下手な芝居で、なんとか白河が服を着る時間を稼ぐ。
まずい。まずいまずいまずい。
まさか本当に人が来るなんて、それもまさか考えうる中でも最悪に近い人物が……。
「え、えーっと……どうやって開ければいいんだ、これ……」
「もういいよ。こっちから鍵で開けるから」
「いや、ここは俺に任せてもら――」
「ほら早く、手を離して。危ないから」
そう言われたらこれ以上の怪しい行動はできなかった。
向こう側から鍵が差し込まれて、ガチャっとロックが解錠された音がなる。
建付けの悪いドアが、ガタガタと横に開かれていく。
「あれ? 白河さんもいたんだ」
そう言って、開かれたドアから一人の女性が姿を現した。
月島澪――私立聖徳学院の世界史担当教員で、俺たちのクラスの担任。
その若くて綺麗で生徒人気も高い先生が、今は恐怖の対象でしかない。
「はい、期末試験の勉強をしていました」
彼女に対して、泰然自若とした口調で返答する白河。
恐る恐る振り向くと、いつも通りにつまらなく制服を着こなしている姿があった。
何とか間に合ったか……と、ホッとしたのも束の間――
「――っ!?」
安堵から地面に落とした視線の端――机の下に紺色の布地が映った。
それは紛れもなく、さっき脱ぎ捨てられていた制服のスカート。
つまり、現実は全く間に合っていなかった。
白河は今、スカートを履いていない半裸の状態で担任と相対している。
「勉強熱心なのは先生的には喜ばしいけど……珍しい組み合わせね」
「そ、そう? 俺はクラスメイトとはみんな仲良しのつもりだったけど」
会話を適当に合わせながらなるべく二人の間に立つようにして視界を遮る。
俺が必死にそんなことをしている傍らで、白河は何食わぬ顔で椅子に座っていた。
冷や汗をかいているような素振りは一切ない。
ここまで堂々としていると、わざと履かなかったんじゃないかとさえ思えてくる。
「そっかそっか。仲良きことは美しき哉……だけど、ここを生徒に貸し出してるのは他の先生には内緒にしといてね。特定の生徒をあんまり特別扱いしてると怒られちゃうから」
「も、もちろん……ところで澪ちゃんは何しに?」
「澪ちゃん、じゃなくて月島先生でしょ?」
少し前のめりになって、軽く説教するような口ぶりで言われる。
「今更? みんなそう呼んでるじゃん」
「それはそうだけど、そのせいでいつも職員会議で怒られてるんだから。生徒と仲良くするのはいいけど友達感覚はダメだ。もっと教師としての自覚を持ちなさいって」
「その友達感覚で気さくに話せる先生ってのが澪ちゃんのいいとこじゃん。てか、他の先生が嫉妬してるだけでしょ。若くて美人で、生徒にも人気があるからって」
「褒めてくれるのは嬉しいけど……君のそういう軟派な物言いは一体、どこで覚えてきてるのかなぁ?」
呆れ口調で言いながらも内心では満更でもなさそうにしているのが分かる。
とりあえず、こういう会話を繋いで俺の方に意識を向けよう。
どうせ白河は禄に喋らないだろうし、そうするのは簡単だ。
「天性のものかな。後は少しばかりの実戦経験と」
「もう……私にだから冗談で済むけど、他の女の子に軽々しくそういうことを言っちゃダメだからね? 将来、修羅場に巻き込まれたくないなら」
「もちろん、俺は心から思ったことしか言わないから。さっき言ったみたいに」
まったく……と、ぼやきながら部屋の隅にある棚の前へと移動する澪ちゃん。
何かを探しに来たようだが、室内を動き回られるのはまずい。
特に白河の方へと移動されたら一巻の終わりだ。
「何か探しに?」
「えっと、一年生の授業で使う古代ヨーロッパの地図を探してるんだけど……どこに置いたかな……あっ、あれだったかな」
「お、俺が取るよ! 澪ちゃんの身長じゃ危ないでしょ」
白河の後ろのある棚の上部を見て、歩き出そうとした澪ちゃんを腕で制する。
「別に、そのくらいなら普通に届くと思うけど」
「いいからいいから。ここは俺に任せて」
内心で冷や汗をかきながら棚の一番上に置いてあるダンボール箱に手を伸ばす。
澪ちゃんは腕を組んで、やや怪訝そうな表情を浮かべて俺を見ている。
多少の不信感は抱かれてるかもしれないが、それでもバレるよりは万倍ましだ。
「よっ……と、結構重たいな」
「気をつけてね。年代物で、落としたら破けたりするかもしれないから」
「大丈夫大丈夫。このくらいは軽い軽い……っと」
落とさないように、ゆっくりと両手に持った箱を下ろす。
そのまま机の上に置いて中を確認すると、年代物の資料が箱いっぱいに詰まっていた。
「ヨーロッパの地図ってこれ?」
「そう、それ! あー、良かった~。すぐに見つかって……下手したら部屋中を調べないといけないと思ってたから……」
「じゃあ、この箱はもう戻しても大丈夫?」
「うん、お願い。ありがとうね」
どういたしまして、と答えながら再び箱を両手で持つ。
これでなんとか、この危機も乗り切れそうだ。
そんな気の緩みがあったのか――
「あっ」
箱を棚へと戻そうとしたところで、何かが床へと落ちてしまった。
コンコンと音を立てて、それはどこかへと転がっていく。
「何か落ちちゃった?」
「俺が! 俺が拾うから澪ちゃんはそこにいて!」
澪ちゃんが屈もうとしたのを電光石火の速度で抑える。
「なんか今日は随分と親切じゃない? 何かあったの?」
「じょ、女性に落ちた物を拾わせるなって、うちに代々伝わる家訓があるんだよ」
もう自分でも笑ってしまうくらいの適当な言い分を述べて身を屈める。
すると、すぐ目の前に白河の真っ白で肉感のある太ももが飛び込んできた。
こいつがスカートを脱いだままなのは分かっていたが、実際に目の当たりにすると現状が細いローブの上を綱渡りしているような状況なのを実感する。
「真岡くん」
「な、何だ……!?」
突然、白河に名前を呼ばれて露骨に動揺してしまう。
「私の足元の辺りに転がってきてたかも」
「あ、ああ……分かった……」
床に膝をついて、白河が座っている椅子の周辺を探す。
少し視線を上に向ければ、白い下着だけに包まれた下半身がある。
気にしてはいけないと思えば思うほど、その存在を強く感じてしまう。
「見つかった? 私も手伝った方がいい?」
「だ、大丈夫! 澪ちゃんまで服を汚すことないって!」
少し埃っぽい床を這って、懸命に落下物を探す。
すると白河が座っている椅子の真下に、小さなケースのようなものを見つけた。
「あった……!」
手を伸ばして取ろうとするが、白河の足が邪魔で届かない。
机の下から白河に、『ちょっと後ろに下がれ』と合図を送る。
しかし、奴は俺の顔を一瞥しただけで勉強しているフリに戻ってしまった。
「そう言えば白河さん。この前の全国模試の結果、総合9位だったって。すごいじゃない」
「いえ、単に運が良かっただけだと思います」
「運で取れる順位じゃないでしょ。相変わらずクールというか……謙遜しちゃって」
足を退けろと何度も合図を送るが、世間話を始めたせいか全く気づいていない。
「でも、志望校は空欄で提出してたみたいだけど……行きたい大学は決まってないの?」
「はい、まだあまり考えていなくて」
「そっか。ご家庭の事情も色々とあるでしょうけど、貴方の成績なら貸与じゃない給付型の奨学金も受けられるんだから、そろそろ真剣に考えた方がいいんじゃない? 相談なら私がいくらでも乗ってあげられるし」
「ありがとうございます。考えておきます」
親身になってくれている先生をも普段通りの塩対応で適当にあしらう白河。
しかし、澪ちゃんもそんな学校一の優等生がまさか今眼の前でパンツ丸出しで座っているなんて夢にも思ってないだろう。
「……で、真岡くんはいつまで床にいるのかな?」
「あっ、その……俺もそろそろ進路のことを考えないとなーって感化されてたっていうか……」
「君はお父さんと同じ大学の同じ学部に行くんじゃなかったの?」
「いや、それもいいけどまた別の道もありかなーとか最近は思い始めてたり始めてなかったり……」
「ふ~ん……まっ、それもいつでも相談に来ていいからね。いつもの調子で、変なことさえ言わなければ」
ははは……と苦笑いを返しながら決意を固める。
流石に、これ以上手間取るわけにはいかない。
理由は分からないが白河は俺のことを完全に無視している。
……となると、もう強硬突破しかない。
白河の足に触れる限界ギリギリまで顔を近づけて、目いっぱいに手を伸ばす。
指先がケースに触れる。
あと少し……! もうちょっと……!
爪の先でひっかくようにして、それを自分の方に手繰り寄せていると……。
――ムニッ……。
頬に柔らかくもスベスベとした肌触りのよい感触を感じる。
白河の素足が、俺の頬に触れていた。
俺は手を必死に伸ばしているだけで、それ以外の部分は動かしていない。
つまり、向こうから押し当ててきているのは明白だった。
何してんだ……と上を向くが、やはり反応はない。
俺を無視して、先生と形式的な世間話を繰り広げている。
ただ、その下半身だけは明確に別の意思を持って動いていた。
もうわざとなのが分かるくらいに、太ももを俺の顔に押し付けてきている。
なんとなく以前、聖奈に膝枕をしてもらった時のことを思い出した。
あれも柔らかかったけど、直接触れるこれは全く別物だ。
より肉感的で、より熱っぽく、より生々しい。
この女の持つ倒錯的な本性が、肌を通して直接伝わってくるようだった。
そうして頭の中に生まれた種々の感情が熱となり、全身を駆け巡っている。
白河は俺のことなど意に介さず、涼しい顔で澪ちゃんと話している。
その無感情な瞳の奥が愉悦に歪んでいるように見えたのは、きっと気のせいじゃない。
それから先のことはあまり覚えていない。
「それじゃあ私は職員室に戻るから、帰る時は戸締まりを忘れないでね」
気がつくと澪ちゃんが教室から出ていくところだった。
扉が閉められたのと同時に、肺の中にあった空気を全て吐き出して安堵する。
なんとか、なんとか乗り切った……。
背中を冷や汗でびっしょりと濡らした俺に、白河は普段通りの涼しい顔で言い放つ。
「ドキドキした?」
「したわ!!」
その夜、普段よりも筆が数段進んだのは今日の出来事とは絶対に関係ない。




