第10話:普通の土曜日
「おい、大和!」
呼び声と同時に、足元へとサッカーボールが飛んできた。
とっさにトラップもできずに、足に当たったボールはそのまま場外へと転がっていく。
「フィールド上でぼーっとしてんなよ」
「あぁ……悪い悪い」
「頼むぜ。助っ人なんだから」
キックインで試合が再開される中、俺の心はやはり別の事に囚われてしまっていた。
『……すごくいい』
完成した自分がモデルのキャラを見た時の白河の表情。
まるでクリスマスの朝に届いたプレゼントを見た子供みたいな笑顔をしていた。
あいつ、あんな顔もするんだな……。
埃っぽくて、どこか非現実的な空気の漂っていた小部屋での出来事が、綺麗に整備されたフットサル上の光景に重なって見える。
どちらが現実で、どちらが幻なのか。
一瞬、そんな馬鹿げた考えが頭をよぎった。
「大和!」
再び、自分の名前を呼ぶ声に気がつく。
今度は少し早く気付けたおかげで、そのパスに反応ができた。
ノートラップでボレーシュートを撃ち、ゴールの端にボールを叩き込む。
同時に、見学に来ていた女子たちから黄色い声援が上がる。
「くそっ、出すんじゃなかった……」
パスを出してくれたサッカー部の稲尾が、それを見て悪態を吐く。
「本番で決めればいいだろ。そしたら、今の倍の歓声がお前のもんだ」
「とか言っといて、どうせ本番もお前が全部美味しいところを持ってくんだろ」
「それはどうだろうな。助っ人料を貰ってる手前、手を抜くつもりはないけど」
フェンスの向こうでキャーキャー言ってる女子に手を上げて応える。
白河との秘密の会合を終えて、午後からは普通の土曜日を過ごしていた。
毎週、何かしらの予定は入ってるけど、今日は夏休み前に行われる開稜高校サッカー部とのフットサル対決に向けた特訓……という名の遊び。
サッカー部を中心とした十人に加えて、誰かが呼んだのか女子たちの姿もある。
まるで午前の出来事が嘘だったかのように、いつも通りだ。
そうだ、ここが俺のいるべき場所だ。
燦々とした光の当たる世界の中心。
そう自分に言い聞かせる。
「ふぅ……よし、そろそろ休憩にすっか!」
稲尾の号令で、皆が順番に休憩へと入っていく。
俺もスポドリでも買いに行くかとフィールドから出ようとすると――
「はい、お疲れ様」
出口のところにいた誰かが横から声をかけてきた。
顔の汗を拭っていたタオルを下ろすと、ペットボトルを差し出す聖奈の姿があった。
「何? そのお化けでも見たような顔は……」
「いや、ごめん。来てるの知らなかったから」
「え~……午前中に連絡したじゃん。もしかして見てなかったの?」
言われて置いてあったカバンからスマホを取り出して確認する。
『今日、フットサルの練習するんでしょ? 私も結月たちと一緒に見に行くから!』
「ほんとだ。ごめん、気づいてなかった」
「も~……ちゃんと見といてよぉ……」
「だから、ごめんって。他の通知で流れてたみたいだわ」
ペットボトルを受け取りながらもう一度謝罪の言葉を紡ぐ。
聖奈からのだけじゃなく、他の未確認の通知がかなり溜まっている。
いつもなら絶対こんなことにはならないのに、あいつのワガママに付き合ったせいだ。
「ほんっとひどいやつだろ? サッカー部の見せ場も奪うしよ」
スポドリを喉に流し込んでいると、稲尾の奴が横からさっきの文句をまた言ってきた。
「ほんとにね。稲尾くんももっと言ってあげてよ」
「よし! 彼女の許可が出た! 真岡大和はまじでひどいやつだ! こんなによく出来た彼女をないがしろにするなんて最低最悪な野郎だ!」
「そうだそうだー! 最低最悪だー!」
「だから西園寺さんもこんなひどいやつとは別れて俺と付き合おうぜ!」
「それはちょっと無理かな」
即答されて、稲尾がその場で新喜劇のようにずっこける。
「稲尾如きが大和から聖奈を略奪なんて無理に決まってるでしょ。身の程をわきまえろってやつ?」
「そうそう。聖奈ってば真岡くんにベタ惚れだもんねー」
そんな様子を見て、近くにいた別の女子二人も茶化してくる。
「べ、ベタ惚れって別にそこまでじゃないし……」
「そんな照れなくっても。さっきも大和のゴールを見て、もう身も心も色んなところもキュンキュンさせちゃってたくせに~……」
友達に揶揄われて、顔を真っ赤にしている聖奈。
これもこれで可愛いけど、そろそろ助け舟を出してあげた方が良さそうか。
「おいおい、みんなしてあんまりいじめてやるなよ。それに、ベタ惚れって言うならむしろ俺の方がそうだし」
「え~、そうなの~?」
「そりゃこんなに可愛くて甲斐甲斐しくて一途な彼女にベタ惚れしないわけないだろ」
歯が浮いてしまいそうな言葉を並べ立てると、女子たちがキャーキャー騒ぐ。
「ん……まあ、大和がそこまで言うなら……私もベタ惚れってことでいいけど……」
そんないじらしい聖奈に、今度は男子たちの方にも大量の死人が生まれた。
大丈夫。いつも通りだ。
あんなことがあっても俺の人生は何も変わっていない。
いつも通りに真岡大和の日々を過ごせている。
***
「ただいま」
「おかえりなさい。ご飯、もうすぐ出来るから」
帰宅し、玄関からリビングに向かって声を掛けると母から返事が戻ってきた。
汗で汚れたスポーツウェアやタオルを洗濯機に入れて食卓へと向かう。
リビングに入ると、デミグラスソースの匂いが鼻腔を擽るのと同時にあるものが視界に入った。
「父さん。今日は休みだったんだ」
「ああ、久しぶりにな」
視線は手元の本に向けられながら言葉だけで短く返答される。
俺の父、真岡誠一はとても忙しい人だ。
肩書は業界最大手の不動産開発会社『三友不動産』の専務取締役。
今住んでいるこの高層マンションも父が開発事業部長を務めていた時代に携わった仕事の一つで、今も役員の立場から都内の大規模都市開発計画を主導している。
そのおかげで平日は朝から晩まで働き詰めで、休日も各方面への根回しや接待に追われて家にはほとんどいない。
こうして食卓を一緒に囲むのは月に数える程だ。
「今日はどこに行ってたんだ?」
「友達とフットサル。今度、開稜のサッカー部と試合するって言うから助っ人に駆り出されてて」
「そうか。運動は良いことだ。学校の方はどうだ?」
「そっちはいつも通りかな」
「そうそう、いつも通り順調で~す」
食卓に着いて、父に応対していると料理を持ってきた母親が代わりに答えた。
「この前の模試も全部A判定だったもんね。だから、今日は大和の好物のオムライス」
「おっ、やった! 流石、母さん」
眼の前に置かれたオムライスを前に、少し大げさに喜んでみせる。
「大学はどうするのか、もう決めてるのか?」
「ん~……今のところは一応、父さんと同じ学部にしようかなと思ってるけど」
「そうか」
満足のいく回答だったのか、本を置いて食事の準備を始めた。
テーブルの上に次々と料理の盛られた皿が運ばれて、最後に母さんが席に着くと家族団欒の時間が始まった。
「そういえば、聖奈ちゃんとは最近どうなの?」
食事が始まってすぐに、母さんがそんなことを尋ねてくる。
一ヶ月に数度は聞かれる定期イベントだ。
「聖奈と? それも順調だよ。これまでと変わりなく」
「本当に? 喧嘩とかしてない?」
「してないしてない。むしろ、仲良すぎて周りから揶揄われてるくらいだし」
「なら良かった。私、聖奈ちゃんがお嫁に来てくれるの本当に楽しみなんだから」
「お嫁って……それは流石に気が早すぎるって」
気が早い母親に苦笑しつつ、特に好物でもないオムライスを口に運ぶ。
美味しいといえば美味しいが、いつ頃からか俺は家での食事に空虚な味を覚えるようになってしまっていた。
「そういえば、以前会った時に西園寺さんがお前のことを褒めていたぞ」
「聖奈のお父さんが?」
「ああ、まだ若いのに将来のことも見据えてて、しっかりしているとな」
「へぇ……それはなんていうか……ちょっと照れるね」
この文脈で父が『西園寺さん』と言えば、それは聖奈ではなく父親の方を指す。
不動産問題に強い法律事務所の代表である聖奈の父親は、俺の父が勤める『三友不動産』の社外監査役も務めている。
法務部とも連携を取っていて、父とは社内でたまに顔を合わせることもあるらしい。
「それと、さっき学校の方は順調だと言ってたが……」
食事の手を止めた父が、俺の顔を見て何かを切り出してくる。
こういう時は大抵どういう方向性の言葉なのか大抵予想はつく。
「ん? 普通に順調だけど……どうかした?」
「以前、一ノ瀬さんのご両親と話した時に聞いたんだが……最近、妙な輩と付き合っているというのは本当か?」
その言葉に、心臓が少しドキッと跳ねる。
「妙な輩……? 誰だろ……」
一瞬、白河のことが頭をよぎったが、流石にそれはないかと内心で苦笑する。
「粗暴でガラの悪い……俗に不良というやつか。一ノ瀬さんの娘さんも付き合いがあって困っていると言ってたが」
「あー……だったら竜二のことかな。確かにあいつは素行も成績もお世辞にも良いとは言えないけど、不良なんて大層なもんじゃないよ。なんだかんだで学校には毎日真面目に登校してきてるしね。それに、外に遊びに行く時とかはさ。ああいうのが一人は近くに居てくれた方がそれこそ妙な輩に絡まれなくて済むんだよ。ほら、俺と聖奈は色々そういうのを引き寄せやすいタイプだし。特に、聖奈はこの前も芸能事務所だかの人間にしつこく絡まれてさ。そういう時には、あいつが一睨みすれば簡単に追い払えるから」
「……そうか。だが、付き合う人間はしっかりと見極めろよ」
その弁明に一旦は納得してくれたのか、それ以上は何も言ってこなかった。
「分かってるって」
俺はあの人とは違うんだから。
そう続きかけた言葉を呑み込んで、食事の手を進める。
父は怒鳴ったり、手を上げたりするような人じゃない。
家族に対してモラハラ気質があったりするわけでもない。
大黒柱として一家を支え、子の教育や体験には金を惜しまない。
真岡大和という人間が、どうあるべきかを正しく教えてくれる。
その教えに応えて、正しい人生を歩むことこそが俺に課された義務だ。




