第86話 初恋の行方①
クラリッサの頬を撫でる外の空気はひんやりしていて、息を吸うたびに心が落ち着いていく。会場の喧噪はもう随分遠い。
一歩前を歩くフロレンツが立ち止まって深く深く息を吸った。クラリッサも横に並び立って深呼吸の間だけ目を閉じた。
「ちょっと強引すぎたか」
「そだね」
別にこんなにも思い切ったことをしてくれなくても、ただ気持ちを尋ねてくれたならクラリッサはちゃんと答えただろう。
多少は素直さに欠けるかもしれないが。少し、いや恐らくかなり。
むしろ何も言わず事を運ぼうとした結果、しなくてもいい勘違いをしてしまった。
頷いたクラリッサにフロレンツがうっすらと笑う。
「必死だったから。もう二度と、家族や家の都合で引き離されないようにと」
――リサがいなかったら、オレ、どうしたらいいの……っ!
いつかのあの子の声が頭に響く。
今なら思い出せる。不安そうなというより死刑宣告でもされたみたいに悲壮な表情をした男の子を。
「いつから……? 最初フロレンツは私に興味があるように見えなかったし、どうしてアイヒホルンを助けようとしてくれたのかわかんない」
(誰にも興味なさそうだった、が近いかな)
初対面の印象は冷たくて何を考えてるかわかりづらい人だったはずだ。
「享楽に耽っても構わない」とまで言っていたが、その享楽に異性間の破廉恥な交友を含まないという但し書きはなかった。
うーん、と首を傾げながらフロレンツがぽつりぽつりと言葉を探し紡ぐ。
「話すとちょっと長くなるけど、動き出したきっかけは『大人の都合で権利を奪われた友人がいるなら、助けなくちゃいけない』ってある人に教えてもらったこと。それでアイヒホルンを調べた」
「権利を奪われた……? でもバジレ宮にいられなくなるのは当然のことじゃない?」
クラリッサは目を丸くしてフロレンツの横顔を見上げた。
「もちろん12年前の事件に偽りがなければ、リサに伯爵家相当の教育や扱いを与えることはできない。残念だけど貴族社会はそういうところだ。
そうは言っても、親ほども年の離れた男に金で人生を買われるのは不当だと俺は思うから、そのあたりを取り成して終わりにしていたかもね。……まぁそれはいいんだけど。結果的にアイヒホルンは無実だったんだし。
昔君がいなくなったとき、俺はどうしたらいいのかわからなくて。君が『ひとりで大丈夫』って言ったから試しに木に登ろうとしたけど途中で落ちてさ」
フロレンツは数歩先にある木に近づいて、懐かしそうに幹を撫でた。
胸くらいの高さに触れて「このへん」とクラリッサを振り返る。
「落ちたけど、ここまで登れたことに驚いた。今まで自分で自分の限界を決めていたかもしれないって思ったんだ。それならリサの言う通り、頑張ったらひとりでも大丈夫かもしれないなって。
だけどリサがいなくても平気だ、とは言いたくなかった。悔しかったんだよ、リサは俺がいなくても平気なのかって。笑っていいよ。何もできない子どものくせに、リサにも俺が必要だって思われたかったんだ」
「フロレンツ……」
言いかけたクラリッサに、フロレンツが首を振る。
「なんでもできるようになった上で『やっぱりリサがいないとダメだ』って言ったら、俺の言葉を信じてくれるかなって思ったんだよね。だから頑張った、すごく。……で、それは子どもの頃の話だ」
あっちに行こうとでも言うように、フロレンツが手で指し示したのは四阿だ。
屋外にありながら白さを失わない石造りのそれは、いくつも明かりが灯って真昼のように明るい。屋根には金細工の装飾があって美しいのだが、夜はさすがに見えないらしい。
一歩踏み出したクラリッサに、フロレンツが手を差し出した。
クラリッサはその手に自分の左手を重ねながら、公の場でのエスコート以外でこうも自然に手を差し伸べられたことがあったかと振り返った。
共に歩こうという意思表示のようで嬉しくも照れくさい。
「で、最初は友人を助けることと、なんでもできるようになったのを君に見せびらかすこと、それだけのつもりだった」
「見せびらかす……」
「そう。リサがいなくても平気だったし、って結局子どもみたいな発想なんだけどね。それがいつから変わったんだったかな。……ああ、君が褒めてくれたから」
「え?」
「あの頃、俺は運動なんて何もできなかったでしょ。みんながダンスの稽古をするのも見てるだけだった。だからダンスが上手いって言われただけで、今までの努力ぜんぶ認められたような気がしたんだ。
いや、でもやっぱり最初からかもね。どれだけそれっぽい理由を並べたって、こんな面倒なシナリオ……クラリッサじゃなかったらやろうと思わなかった」
決して汚れているようには見えないガゼボのベンチに、フロレンツがハンカチを敷いた。
クラリッサが手を引かれるままにそこへ座ると、フロレンツのジャケットが肩に掛けられる。紳士の行いとしてごく当たり前のことをごく当たり前にやっているだけだというのに、まるで宝物のように大切にされた気がして照れくさい。
ベンチから見る庭は、まるでここから見ることを前提に剪定したかのように美しかった。
ただ黙ってそれを眺めていたって、何時間でも過ごせるような気がするくらいに。
「ほんとに凄いよフロレンツは。なんだってできるんだもん。もうあの頃のフロレンツじゃないね」
「あの頃の俺と何も変わってないよ」
柔らかに笑うフロレンツの横顔から目が離せない。
(いつからこんな風に笑うのが普通になったんだっけ)
フロレンツといえば、無口で無表情で圧があって王族ムーブばかりする人物だったはずだ。
いつからこんなに喋るようになって、いつからこんなに笑うようになって、いつからこんなに紳士的になったのだろう。
いつからそれが当たり前だと思うようになっていたんだろう。
自分以外の誰かに向けられた笑顔を悲しいと思うようになったのはいつからだろう。
「笑った顔、好きだなぁ」
「笑った顔だけ?」
こぼれた言葉に、フロレンツが横目で睨んだ。
「全部。ぜんぶの表情を独り占めしたいくらい」
「独り占めしなよ。……俺が許すから」
「ふふ、冗談だ――」
「言って。リサの気持ち」
体ごとクラリッサのほうを向いたフロレンツは、珍しく余裕が感じられない表情だ。
それは、確かに「どうしたらいいの」と泣いていた少年そっくりだった。あの日の感情が蘇って、クラリッサの瞳からぼろぼろと涙がこぼれ出す。
「私、あのとき、私もどうしたらいいのかわからなかったの。フロレンツと離れたくなかった。だけどフロレンツを励まさなくちゃって、だから『ひとりで大丈夫』って言ったけど。
でも本当は私のほうこそフロレンツがいないと駄目だったの。あの頃の思い出を封印しちゃうくらい、お別れするのが悲しかった」
「クラリッサ……」
「ずっとずっと、ずっと大好きだった。今も、ずっと」
ぎゅっと抱き締められたクラリッサの鼻腔にフロレンツのムスクが香った。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:アイヒホルン伯爵家の長女。フロレンツが好き。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。クラリッサが好き。




