第8話 久しぶりと言うには遠すぎる⑤
「ねぇ、お腹すいちゃったよ~」
カトリンの力の抜けた声がピリリとした空気を霧散させた。誰もが一斉にカトリンを見て、そして微笑む。これがマスコットの威力かとクラリッサは恐れおののいた。
と同時に、周囲の侍従たちがゆったりと洗練された動作でそれぞれのグラスへワインを注いでいく。見た目にも可愛らしい薄ピンク色のロゼシャンパーニュだ。グラスの中で細やかな泡がぱちぱちと弾けた。
フロレンツが静かにグラスを掲げ、全員がそれにならう。
見た目に負けない華やかな香りがクラリッサの鼻腔をくすぐった。口当たりは爽やかな甘さでサラリと飲めてしまいそうだ。それでいて鼻に抜ける香りや後味には微かに渋みがあって、食欲を誘う。
普段、食前酒をいただくような食事を滅多にしないクラリッサに、粗相をしてしまわないかと緊張が戻って来た。心臓がいつもよりアップテンポで動くのは、緊張のせいか酒のせいか。
「初めに言っておくが、アイヒホルン家にまつわる昔の事件は済んだこと……少なくとも、このクラリッサには無関係な話だ。バジレ宮内でその話題は持ち出してくれるなよ」
グラスを置いたフロレンツが静かに言い放つ。
貴族の社会で、家と個人が別個のものとして扱われることは稀だ。社交の場に出て名を名乗れば「ああ、アイヒホルンの」と柔らかな視線がスゥっと温度を下げるのが当たり前の世界。
それをわざわざ関係のない話と切り分けたことに驚いて、クラリッサは思わず左隣を見上げた。
(んー、無表情!!)
相変わらず眉ひとつ動かさない澄ました顔からは、全く感情が読めない。それならばこれは優しさではなく、無関心からくる注意事項に違いないと考えた。
フロレンツの目的はゲシュヴィスター制度の研究である。それと関係のないことで揉めて離宮の平穏を乱したら承知しないぞ、ということだろう。しっくりくる可能性に行きついて人知れず頷いた。
「もちろんですわ! お家がどうであろうと、彼女は彼女」
フロレンツの言葉に真っ先に同意したのは、意外にもアメリアだった。
「それは、事件とは関係なく仲良くなれないということ?」
「ええ、もちろん」
アメリアがシュテファニの質問に被せるように大きく頷いた。なるほど、ギーアスター家の人間だからではなく個人的にクラリッサのことが好きではないらしい。
むしろ闇が深いと言えるのではないだろうか。この席に並ぶ雲上人に失礼を働けるような距離にいたことのないクラリッサは、ここまで嫌われる理由が思いつかずに頭を抱えた。
(やっぱ、この人かな……)
ちらっと左隣の無表情を見る。粗相をした覚えがない以上、フロレンツのせいに違いない。彼がクラリッサをここへ招待したり、部屋までの案内を買って出たりしたからに他ならないのだ。
クラリッサにはアメリアの恋路を邪魔するつもりは一切なく、どうかその怒りを鎮めて欲しいと心で鎮魂を願う。
(それはそれとして)
そう、それはそれとして。クラリッサは鮮やかに盛り付けられたオードブルを口に運んだ。
突いてはいけない話題はスルーする、という技術くらいは身に着けて生きて来た。涼しい顔で食事を楽しむことにする。この美味しいハムに罪はないのだから。
「俺、クラリッサのことあんまりよく覚えてないんだよね。こんな可愛い人を忘れるなんて、勿体ないことしちゃったなー」
「アタシもなんだ~。ごめんね、これから仲良くしようね~!」
ロベルトがテーブルに肘をついてフォークを指先でクルクル回していた。テーブルマナーはどこかのベッドに捨てて来てしまったようだが、気まずい空気をどうにかする技術は一級品だ。
一方カトリンはお日様みたいな笑顔で、やはりフォークを握り込んでブンブン振っている。
なるほど、フロレンツの言う「形だけの礼儀作法はいらない」とはこのことかと合点がいく。思えば、誰もがクラリッサをクラリッサと親愛を込めて呼んでいるように思えた。ミス・アイヒホルンではなく。
「小さな頃の短い間でしたもんね。こちらこそこれから是非ともよろしくお願いします」
「僕は覚えてるよ。クラリッサは絵や音楽が大好きだったよね。ねぇ知ってるかな。あのヴァイオリニストはヒュフナーと言って、――」
「えっ。カール・デニス・ヒュフナー様ですか?」
クラリッサの言葉にヴァルターがパッと晴れやかに破顔して頷いた。
ヒュフナーの名は、滅多に楽団の演奏を聴く機会のない末端貴族のクラリッサの耳にも届いていた。まだ15歳にして、大人顔負けの技術を持っているのだと。
ヴァイオリンの演奏をきっかけにして、芸術方面の話や最近話題の本についての話で盛り上がる。和やかなムードのまま時間が過ぎていき、テーブルを囲む全員の表情もリラックスしていった。
「クラリッサ、また『様』付けちゃってるじゃん。俺、ここにいるときは君と対等な男女、だと思ってるから、ちゃーんとロベルトって呼ばないと返事しないよ?」
クラリッサが誰かに「様」をつける度に誰かが注意するのだが、クラリッサがこれを改善するのは一朝一夕では難しいだろう。
そのうえ、ロベルトが相手なら敬称をつけておいたほうが安心できるようにさえ思えてしまう。
「お前は冗談が通じるだけの信頼関係を先に築いたほうがいい」
「じゃ、信頼関係を築くために今夜俺の部屋来ない?」
ほとんど喋らなかったフロレンツが、ロベルトの行き過ぎたジョークに釘を刺した。しかしロベルトはヘラリと笑って受け流す。
こういうのを貴族トークと言うのだろうか。クラリッサには少しばかり崇高で難しい。
「……その部屋の場所を知らんだろう。この後、バジレ内を案内してやる」
「ああ、それならわたしが」
フロレンツの呆れ声に反応したのはシュテファニだ。目が合うと、スミレ色の瞳がやんわりと細められ、クラリッサは同性相手に照れて俯いた。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。かつての仲間と挨拶を交わし、自分の立ち位置を模索中。
●カトリン:オスヴァルト伯爵家の末っ子。マスコット。子供っぽい。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。遊び人と名高い。なぜクラリッサを呼んだのかは謎。
●アメリア:ギーアスター伯爵家長女。クラリッサに正面から嫌いって言っちゃうお茶目さん。
●シュテファニ:ローゼンハイム公爵家ひとり娘。全貴族の憧れの君。とても同い年には思えない。
●ロベルト:エルトマン公爵家長男。軽薄男子。社交界では浮き名を流しまくっているという噂。
●ヴァルター:ペステル伯爵家長男。のんびり屋さん。
名前だけ登場の人
●ヒュフナー:カール・デニス・ヒュフナー、バイオリニスト。たぶんもう出て来ない。
今回登場用語基礎知識
●ゲシュヴィスター制度:兄弟姉妹制度。5~10歳の同年代の貴族の子が集まり基礎教育を受ける。元は王族の情操教育が目的。




