第77話 自由恋愛は難しい③
マナー講習を終えたクラリッサは四肢を投げ出してサロンのソファーに溶けだしていた。
孤児院の事件からどれほどの日数が経っただろうか。忙しすぎて、ほんの数日のようにも半年くらい続いたようにも思える。
が、季節は変わっていないしロイヤルパーティーも終わっていないのだからそう長くはないだろう。
「あら伯爵令嬢にあるまじき姿態ね」
音もなく現れたのはシュテファニだった。戸を開けたまま、腰に手を当ててソファーへと近づく。
クラリッサは首だけを動かしてシュテファニを確認すると、「ううう」と唸り声をあげた。
「まだ男爵令嬢ー」
「王陛下による昇爵の儀を終えていないというだけで、議会はもう認めたのだから伯爵令嬢で間違いじゃないわ」
シュテファニがクラリッサの横に座り、溶けた身体がシュテファニにまとわりつかないようにするには、クラリッサは身体を固形に戻すしかなかった。
ソファーに座り直して足を揃える。
この5日ばかりの間は誰もが忙しくしている。
アイヒホルンの復権と、文部省や財務省の新たな大臣の選任、ロイヤルパーティーの準備に他国からの来賓まで重なったのだ。
フロレンツもシュテファニも仕事が忙しすぎてほとんどの時間を本城で過ごしていた。
「復権審議が予想以上にスムーズで良かったっちゃ良かったけど」
「それは孤児院の事件で貴女が頑張ったからだわ。またしても貴族が平民を扇動して事件を起こして、犠牲になりかけた孤児たちを貴女が助けた……貴族は信じられないけど、貴女は信じるって。
だから議会も貴女の人気にあやかって世論を落ち着けたかったんでしょうね」
それはクラリッサの耳にも入っていた。孤児たちがクラリッサを称え、教師たちは同じ人質でありながら励まし続けてくれたアイヒホルン夫妻に感謝したと。
「みんながお仕事で忙しそうにしてるのに、私はお勉強で忙しいの、なんだか申し訳なくって」
「それは貴女の仕事でしょう。伯爵令嬢になる準備だもの」
「そうだけどー。アメリアもヨハンもヴァルターも出て行っちゃったしシュテファニは寝に帰ってくるだけだし、こんなに広いバジレにひとりぽっちは寂しいんだよねぇ」
以前、ヨハンが頻繁に外出していると思ったら新居を探しに出かけていたらしい。貴族という立場でなくなる未来に向けて、前もって準備するのはヨハンらしいと言える。
アメリアは最後まで嫌がっていたが、いつまでもバジレに置いておくこともできないというフロレンツの言葉で、ヨハンに引きずられるようにして新居へ引っ越して行った。
ヴァルターがどうして出て行ったかをクラリッサは知らない。ただ、忙しくするシュテファニを支えるために、もっと勉強に本腰を入れたかったんじゃないかと考えている。
「わたしも落ち着いたら出ていくわ。今はバジレ宮のほうが近いからまだここにベッドを置いてるだけだし」
「ほんと忙しそうだよねぇ」
「それもこれもフロレンツがグラセアと新たな協定を結ぶとか言うから。向こうの担当者と内容の精査をずっとやってるのよ、わたし」
「あれ、もしかして」
「そう。外交の窓口である文部省がいまほとんど機能してないでしょう。だから立法府がかなりの範囲でカバーをしてるわけだから、わたしが忙しいのは――」
シュテファニの表情に一気に暗雲が立ち込め始め、クラリッサは庇うように両手で頭を抱えた。雷が落ちてくる。クラリッサはシュテファニを怒らせるプロだからわかるのだ。
「アイヒホルンが――」
「クラリッサ様」
雷は落ちる前に空中で分解してしまった。
一気に雷雲を霧散させてしまったのは、バジレ宮を切り盛りしている執事のアヒムだ。開いたままだった扉をノック代わりに叩いてはいるが、体はもう入室している。
「ひゃっ、ひゃい! なんでしょうか!」
クラリッサは背筋を伸ばして返事をした。生命の危機を助けていただいたのだ。この機会を逃すわけにはいかない。しっかりアヒムのお話を聞いて確実に逃亡しなくては。
「フロレンツ殿下がお呼びでいらっしゃいます。お庭へおいでください」
「お庭……?」
「わたしはもう行くわ。クラリッサのぼんやりした顔見たらすっかりイライラがおさまっちゃったもの」
行ってらっしゃいませと頭を下げるアヒムの横を風のようにすり抜けて、シュテファニがサロンを出て行く。
なんとなく悪口を言われたような気がしてクラリッサはほんの少しだけもやっとしたが、元気が出たならいいかと忘れることにした。雷を落とされるよりずっとマシだ。
それに、フロレンツに会うのも少しだけ久しぶりだ。自然と口元が緩んでしまう。
◇ ◇ ◇
クラリッサが庭に出るとすぐ、少し離れたところにフロレンツを見つけた。
シュテファニは夜には戻ってくるが、フロレンツはこの数日のあいだ寝泊りも本城だったため、クラリッサが彼の姿を視界に入れるのはすごくすごく久しぶりに感じられる。
とく、と高鳴った胸はしかし、フロレンツの隣にいる誰かのおかげで痛みを感じるほど締め付けられた。
美しい女性だ。スレンダーなラインのドレスは、メリハリのある彼女の女性らしいラインを際立たせている。上質な生地にそれ相応の身分を思わせた。
「ああ、クラリッサ。こちらに」
フロレンツがクラリッサに気づいて片手を上げた。右手は女性の腕が抱き締めている。
近づくほどにはっきりする女性の姿。オリーブ色の肌、エメラルド色のアーモンド形の瞳。
その外見的な容姿からも、フロレンツの右腕に腕を絡ませて密着するその様子からも、彼女が隣国グラセアの貴人であることがわかった。
フロレンツと女性のさらに向こう側には、ウタビアとは違う制服の騎士がふたりついている。ウタビア王国の近衛よりも幾分か細身に見えるが、隙はない。
「アイヒホルン伯爵令嬢のクラリッサです。クラリッサ、こちらはグラセアの王女シャンタル殿下だ」
慌てて右足を引いて膝を折ったクラリッサの頭上に降り注いだ声は、まるで小鳥が囀っているかのようだった。
「はじめまして、可愛らしい方」
掛けられた言葉は当然のようにグラセアの言葉。クラリッサは頭を下げたまま同じくグラセアの言葉で挨拶を返す。
「まぁ上手! ねぇフロレンツ殿下。もしかして、この方のこと?」
きゃっきゃと花が綻ぶように笑うシャンタルの声がフロレンツに向けられる。
フロレンツの許しを得て顔をあげたクラリッサの視界に飛び込んできたのは、クラリッサでさえほとんど見たことのない、フロレンツの余所行きではない柔和な笑顔だった。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。制度改革にも恋にも全力で取り組みたい所存。
●シュテファニ:ローゼンハイム公爵家一人娘。全貴族の憧れ。
●アヒム:アヒム・アルテンブルク。フロレンツの従者。バジレ宮においては建物や使用人の管理も行っている。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。悪しきを正し、積年の想いをどうにかするため暗躍中。
●シャンタル:ウタビアの隣国グラセア王国の王女。
名前だけ登場の人
●アメリア:ギーアスター元伯爵家長女。父を見限ってクラリッサ派に。ツンデレ界のレジェンド。
●ヨハン:ハーパー元伯爵家次男。本の虫。アメリアが好き。
●ヴァルター:ペステル伯爵家長男。のんびり屋さんで絵描き。家を継ぎたくない。
今回登場用語基礎知識
●議会:王国議会のこと。国政の中心地。
●立法府:現在はローゼンハイムが大臣。主として法を定立させるのがお仕事。
●文部省:国内の教育、倫理を司る。また、外交も担当。大臣の座はギーアスターからアイヒホルンへ最近移譲された。
●グラセア:隣の国だよ!




