第75話 自由恋愛は難しい①
クラリッサとフロレンツがグレーデン邸へ到着したときには、関係者が全員勢揃いしていた。
グレーデン夫妻にユストゥス、クラリッサの両親と、それにビアンカだ。
互いの無事を喜び合うと、クラリッサはすぐにビアンカを誘って部屋を出た。庭に出ることは禁じられたため、小さなバルコニーから庭を眺めることにする。
「殿下、かっこいいよね」
沈黙を破ったのはビアンカだった。
ふたりともただ夜の帳が降り始めた庭を眺めていたが、ビアンカの言葉をきっかけにして空気が動き始める。
「そうだね」
「もうね、事件にクラリッサが巻き込まれたってわかった瞬間にピッケンハーゲンのお庭を飛び出してね、すごかったんだよ」
「ビアンカ……」
「走りながら周りの人に指示を出してさ、見たことないような必死な――」
「あのね、ビアンカ」
クラリッサは珍しく早口でまくしたてるビアンカの目を見て、遮るようにして話を止めた。
「うん」
「私、フロレンツが好き」
ビアンカが瞬きをする間だけの一瞬の沈黙が、クラリッサにとっては長い長い時間に感じられる。
相手の表情を見たくない弱腰な気持ちと、その目を見つめなければならない義務感とがクラリッサの心の中でせめぎ合う。
「知ってる。ずっと前から気づいてた」
「この恋はうまくいかないって思ってたの。だからビアンカが本気なら応援したほうがいいのかなって」
「うん」
「でも、ごめん、できない。私、応援はできないの」
申し訳なさと情けなさがこみ上げて、クラリッサの目に涙を溜める。ここで泣いていいのは自分ではない、そう思ってクラリッサは目に力を入れた。
「友達なのに?」
「友達でも」
ビアンカはついとクラリッサから庭へと視線を移した。
凪いだ横顔にはどんな感情が隠れされているのかわからなくて、クラリッサはそのままビアンカを見つめ続ける。
「殿下のこと、あたしも好き」
「うん」
「でもあたしはクラリッサとは違う。かなわない恋をするほど馬鹿じゃない」
「うん……ん?」
「あたしはね、アルノー様みたいに行き遅れてからお金で解決するなんてしたくないの」
「へ?」
そんなことは、誰だってしたくない。クラリッサだってしたくない。
もしフロレンツを追いかけたまま行き遅れたなら、独身を貫くだろう。そうしても弟から嫌がられないような環境を作る必要はあるけれども。
「殿下が『リサ』って呼んだのを聞いたときから、これは叶わない恋になるってわかってた」
「あ……」
フロレンツがクラリッサを愛称で呼ぶようになってから久しいが、最初に呼んだのは美術品の鑑賞会だったはずだ。ビアンカはそこにも顔を出していたから早ければそこで聞いていることになる。
クラリッサが自分の気持ちになどまるで思い出しも気づいてもなかった頃、ビアンカはもう何か勘付いていたのだろうか。
「ほんとはね、ずっと言ってくれるの待ってた。あの子が好きで、あの子だった殿下が好きなんだって」
「ごめん……。私、大事なこと全部忘れてて」
「ふふっ。あのね、あたしさっきユストゥス様からデートのお誘いがあったの」
「え、え?」
満開の花畑を飛び回る蝶みたいにキラキラした表情で、ビアンカがクラリッサの顔を覗き込んだ。
「殿下のこと諦めてあげるって言ってんの!」
「さ、最初から譲るつもりないし! え、でもユストゥスが? ほんとに?」
「年下男子、結構いいかも」
「なにそれ!」
「年下に見られたくないって背伸びするのがね、なんかすごいグッとくる」
イタズラが成功して喜んでるようなとびっきりの笑顔で、でもほんのちょっとだけ頬を赤らめてビアンカが笑う。
クラリッサも嬉しくなってビアンカに抱き着くと、お互いにおでこをくっつけて笑い合った。
「幸せになろう、ね」
「うん、ありがとう」
くすくすと笑い合うふたりの耳に、重厚で滑らかな声が響く。
「リサ、そろそろ打ち合わせを始めたいんだが……来られるか?」
「大丈夫でーす。クラリッサお返しいたしますねー」
ビアンカが茶目っ気たっぷりにクラリッサにウインクをして、バルコニーから出て行った。
脇をすり抜けて立ち去るビアンカに呆気にとられるフロレンツに、クラリッサが首をかしげて見せた。
「なんだか顔が赤いけど、大丈夫?」
「ああもちろんだ、問題ない」
頷くフロレンツの向こう側で、もう帰ると叫ぶビアンカの声が聞こえた。
事件に巻き込まれたクラリッサを心配してここへ来てくれただけで、彼女は打ち合わせに参加するわけではない。
同じく打ち合わせに参加しないユストゥスと、この広い屋敷で二人きりになるのはまだ早いと考えているのかもしれない。
「今行くー!」
クラリッサも叫び返して、フロレンツと共にバルコニーを出た。
エントランスにはクラリッサとユストゥスがやって来たが、さらにその外側まで見送りに出るのはユストゥスに任せることにして、クラリッサは踵を返した。
可愛い弟分のユストゥスと親友のビアンカが仲良くするのは嬉しいし、是非上手くいってほしい。
年下男子はイイぞと笑うビアンカの表情に曇りが無くて、本当に良かった。
「クラリッサ、ちょっといいか」
「お父様、どうしたの?」
フロレンツをはじめ、打ち合わせに参加する人物は皆サロンへ向かっているはずだ。クラリッサもまた待たせないよう急いでサロンへ戻ろうとしているところだった。
だがボニファーツはエントランスの隅でクラリッサを待っていた。緊急事態か、今しか伝えられない何かがあるのか。
「具体的な方針や対策はこれから話し合うにしろ、わたしはアイヒホルンが失ったすべてを取り戻すために死に物狂いで議会に臨む」
「はい」
「すべてを取り戻したら……リサ、おまえにはわんさと縁談が舞い込むだろう」
少し前に、いや、未だに届く見舞いや社交の手紙の山を思い出す。
フロレンツと交流があるというだけであれだけのアクションがあるのだから、クラリッサの立場が変わればボニファーツの言うことは現実離れとは言えなくなるのが理解できた。
「ん、そうかもしれない」
「家が復権しても、わたし自身の地盤が固まったわけではない。できる限りおまえの望む縁談を選び取りたいが……断り切れない事態があることもわかってくれ」
「……はい、貴族ですから」
「すまない」
クラリッサにとって、ボニファーツの話は頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
家のためにアルノーとの結婚を決めた過去があるのに、家さえ復興すれば自由恋愛がまかり通るとなぜ思い込んでいたのだろう。
フロレンツがほとんど結婚相手を選ぶ立場にないのと同様に、クラリッサにもまた自由は少ないのだ。
彼の心を射止め、周囲の貴族を説き伏せることができたなら? 成功する可能性はどれほどあるのだろうか。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。家の権威を取り戻すために奮闘中。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。悪しきを正すために奮闘中。
●ビアンカ:アウラー伯爵家長女。クラリッサの親友。フロレンツのファン。
●ボニファーツ:アイヒホルン男爵家当主。クラリッサの父。
名前だけ登場の人
●グレーデン:ハンス・グレーデン伯爵のこと。官吏省大臣でクラリッサの伯父。
●ユストゥス:グレーデン伯爵家長男。クラリッサの従弟。イケメンに育った
●ピッケンハーゲン:アントン・ピッケンハーゲン伯爵のこと。行政府で大臣の補佐をする。
●アルノー:バルシュミーデ子爵。クラリッサの元婚約者。監督省王都警備主責任者。42歳。




