第74話 反貴族派の襲撃⑧
過度の期待に胸を膨らませるクラリッサの耳に、どこからか懐かしい声が聞こえた。家族の声だ。
ハッとしてフロレンツを仰ぎ見る。
「えっと、犯人はもうみんな捕まりましたか? 人質は……お母様やお父様や、先生がたは?」
ドナシアンがひとりで部屋を出て行くのを許したのだからきっと大丈夫なのだろう。
クラリッサの予想通りフロレンツが薄っすらと微笑んで頷きながら口を開いたとき、大きな音をたててドナシアンが戻って来た。
「大丈夫だよ、みんな隣の部屋にいたのをオレが助けたからな! 今はみんな下に降りてるみたい」
「宿直室?」
「そう。助けてる最中に変な音がしたから様子を見にこっち来たら、クララが襲われてんだもんなー。全く世話が焼けるぜ」
誇らしげに語るドナシアンを尻目に、フロレンツは彼が持参した真っ白なシーツを手際よくクラリッサに巻き付けていく。
ミノムシのようにぐるんとシーツに包まれた状態で、クラリッサの体が宙に浮いた。フロレンツが抱き上げたのだ。
「さあ、積もる話は後にして行こうか」
「えっ、待って???」
「おおーリアルお姫様抱っこスゲエー!」
ドナシアンがぴょんぴょんと跳ねて抱き上げられているクラリッサを観察する。まるで曲芸団が使役する珍しい動物でも見つけたように。
「待って、歩ける、歩けますから!」
「歩けないくらいギュウギュウに巻いた」
「巻き直せばいいんじゃないかなっ??」
「もう面倒だ。それに君は靴も履いてない」
クラリッサの鼻先からそう遠くない位置にある綺麗な顔がなんでもないことのように答える。そのまま視線だけでドナシアンに扉を開けるように命じた。
「あ、ほら、ルッツはどうするのっ?」
転がっているルッツはもしかしたらもう意識を取り戻して、逃げる算段について考えを巡らせているかもしれない。
そしてクラリッサはルッツの身体を拘束する間に、自分の拘束をどうにかする計画を考え付いた。賢い。
「さっきついでに警らのおじさん呼んだからそろそろ来るんじゃないかな」
「なるほどねっ!? さすがドナだね!」
賢いのはドナシアンのほうだったと知って、クラリッサは項垂れた。
(……こういうことされちゃったらさぁ。……もっと期待しちゃうじゃんか)
期待して、自惚れたあとで拒絶されるのは心が壊れそうなくらい痛くなるとわかってるから、本当だったら期待なんてしたくないのだ。
(でもやっぱり、好きだな……)
もっとムスクの香りに包まれたくて、クラリッサは口も目も閉じてフロレンツの肩に頬を乗せた。
フロレンツの歩く振動まで心地いい。
「すまないが、ご両親との感動の再会はあとにさせてくれ。君の衣類をどうにかするのが先だ」
クラリッサは、呟くようなフロレンツの言葉に頷く。
王子殿下に抱きかかえられているこの状況を見られればまず間違いなく叱られるし、フロレンツの言うように乱れた衣装はいらぬ心配を与えてしまう。
とにもかくにも叱られたくないクラリッサは、全面的に同意だ。両親が無事であるならそれでいい。
エントランスでは数名の近衛騎士が殺気だった表情でフロレンツを待ち構えていたが、「寝ているから静かに」というフロレンツの華麗な嘘によって、クラリッサはバジレ宮まで寝た振りをしなければならなくなった。
おかげでドナシアンとお別れの挨拶をすることもできなかったし、これは本日のやらかしと相殺してもらうしかない、そうしよう、と心に決めながら本当にフロレンツの腕の中で眠りに落ちてしまった。
◇ ◇ ◇
腕の中で眠るクラリッサを見つめながら、フロレンツは深い溜め息を吐いた。
ピッケンハーゲン邸に警らの伝令が飛び込んでくるのと、グレーデンからの使いの者が訪ねてくるのはほとんど同時だった。
孤児院での立てこもり事件とクラリッサが行方をくらましたという情報を以って、正しく状況を把握できたのはフロレンツだけだっただろう。
思わず後先も考えずにピッケンハーゲン邸を飛び出してしまった。
弱者のために我が身を顧みないのは昔から変わらない、クラリッサの美点であり短所だ。
小動物のような寝息をたてるクラリッサの頬を撫でると、きゅっと眉根が寄った。他に聞く者のいない小さな馬車でフロレンツはクツクツと笑う。
(木登りを叱ったナニーの気持ちがわかるようになるとは)
クラリッサは自由に思うままに動いているのが最も魅力的だと思う。頭の回転が速いのも、驕った様子がないのもいい。そうでなければ、今回の事件をここまでスピーディーに解決するのは難しかっただろう。
何かあるたびに心臓が潰れそうになるのには慣れないが。
(しかし、だ。あんなに否定しなくてもいいものを……)
フロレンツは、クラリッサがドレスを「好き」だと口走ったのを懸命に否定する姿を思い出した。あんなに否定しなくても、勘違いしないよう気をつけているというのに。
彼女が己に対して友愛や畏れ以上の気持ちを持っていないことは理解している。いや、そう言い聞かせているのだ。
いつだったか彼女は「結婚する気はない」といった話を否定しなかった。それはつまりフロレンツを結婚相手として考えていないということだ。
そんなことは、「今までは」にすればいいと思っていた。未来のことなんて誰にもわからないのだから。
「大人の都合から助け出せればそれでいいと思っていたのにね」
彼女が本来持っているはずだった権利を取り戻したらそれで終わりだ、と思っていたのはただの言い訳だった。
自由に好きなように生きてほしいという願いには続きがあった。ひとりでも大丈夫だと見せつけたいのには理由があった。
自由を得てなお、王族ではないフロレンツ個人を好いて頼ってほしいと、いつからかこんなにも願うようになっていたなんて。
アイヒホルンの復権が目前となった今、彼女を取り巻く状況は大きく変わる。いつまでもフロレンツの庇護下に置いておくこともできないだろう。
もう、ゆっくり彼女の気持ちが動くのを待ってはいられないかもしれない。
「殿下、お話があると言って聞かない者が」
王城の敷地内に入ってすぐに馬車が止まり、アルノーの訪問が告げられた。事前のアポイントも何もない、不敬な訪問である。本人はそれが許される立場だと思っているらしい。
仕方なく窓を小さく開けると、馬車のすぐ横にやって来た小太りの男が背伸びをしながらフロレンツに声をかけた。
「聞いていたお話と違います。クラリッサ嬢を手放した上にこのような業務だなんて――」
「現場の収拾も終わらぬうちにこんなところに来て……。確かにリサがいなかったらお前の立場はもっと悪かっただろう」
「はい?」
「伝令ひとつまともに出せず、業務内容を理解もしない人間を王都警備の責任者に任じたのは間違いだった。引継ぎの用意をしておけ、追って沙汰を出す」
フロレンツはアルノーの返事を待たず馬車を動かすよう指示を出した。
また官吏省の大臣たるグレーデンと話をしなくてはいけなくなったが、あとでグレーデン邸へ向かうのだからちょうどいいとも言えるだろう。
オスヴァルトを引き入れられた以上、警らを自分の指先で動かす必要はもうないのだ。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。家の権威を取り戻すために奮闘中。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。悪しきを正すために奮闘中。
●ドナシアン:孤児院の年長の男の子。近衛になってフロレンツを守るのが夢。
●アルノー:バルシュミーデ子爵。クラリッサの元婚約者。監督省王都警備主責任者。42歳。
名前だけ登場の人
●ルッツ:ルッツ・マイザー。元官吏省北方管理部長アウグストの息子。
●グレーデン:ハンス・グレーデン伯爵のこと。官吏省大臣でクラリッサの伯父。
●ピッケンハーゲン:アントン・ピッケンハーゲン伯爵のこと。行政府で大臣の補佐をする。
●オスヴァルト:ベネディクト・オスヴァルト伯爵のこと。監督省大臣。
今回登場用語基礎知識
●官吏省:国政にまつわる人事のほとんどを担う部門。代々グレーデン家が大臣を務める。




