第73話 反貴族派の襲撃⑦
「どうしてここにいるんだ。リサ、ドナ?」
「フロル!」
氷点下よりも冷たい声が室内に響いて、クラリッサは驚くと同時にさらに目を固く閉じた。できることなら耳もパタンと閉じてしまえたらいいのに。
「はっ、王子殿下のお出ましか」
「……ルッツ。お前は何をしてるんだ」
(マイザーのほうだったんだ……)
ルッツ・マイザーは12年前の事件から官吏省の中の北方管理を任され、現地に居を構えている。社交の時期になれば王都にやっては来るが、滞在日数はそう長くなく出席するパーティーも厳選されていた。
クラリッサは道理でルッツを見たことがないわけだ、と納得する。いや、ガルドゥーン家の子息ゲアノートでさえ見たことはないのだけれども。
「決まってるだろ、復讐だよ。なんでハーパーやオスヴァルトは捕まらない? あいつらも同罪だろう!」
フロレンツはルッツの言葉には返事をせず、溜め息を吐いて一歩踏み出した。
「動くなよ」
やはり返事はしない。
また一歩動く音がクラリッサの耳に届く。
「動くなって言ってんだろ。この女どうなってもいいのかよ」
フロレンツにばかり意識を向けていたせいか、思ったより近くからルッツの声がしたことでクラリッサは肩をびくりと揺らせた。
思わずドナシアンを抱く手に力が入って、耳元でぐえっという声が聞こえる。
「お前の指図は受けない。俺は王族で、お前は――罪人だからだ」
「ざっけんな!」
クラリッサの背後で激昂したルッツが大きく動く気配がした。深く息を吸って目を開ける。最期にフロレンツの姿をしっかり見ておきたかったのだ。
が、その視界に入ったのはルッツの後ろ姿だった。彼はクラリッサではなくフロレンツの方へと向かって行ったらしい。
そのルッツを華麗にいなして、フロレンツは真っ直ぐにクラリッサとドナシアンの元へやって来た。まるで最初からルッツなどいなかったかのように。
「で、どうしてここにいるのか言ってみなよ」
「えっ?」
(何言ってんの、この人)
攻撃をかわされて、たたらを踏んだルッツがフロレンツの背後で向き直ろうとしている。
鬼気迫る表情だ。……フロレンツもだが。鬼が二体になってしまった。
「えっと」
「小屋で待ってるように言ったはずだけど?」
「だって!」
腕の中でドナシアンが声を上げる。もぞもぞと動いて、どうにかクラリッサの腕から脱しようとしているようだ。
「ちょ、それより」
クラリッサがフロレンツの背後を指さす。より明確な敵意を剥きだしにしている鬼が近づいている。
仲間同士で口論をしている場合ではないはずだ。
動かした腕の隙間からドナシアンがにじり出て来た。今度こそルッツに立ちはだかるようにしてクラリッサの前に立つ。
「俺を無視してんじゃねーぞ!」
「無視されたくなかったらもっと建設的な言動と行動を心掛けるべきだった。司法取引って言葉を知ってるか知らないが、そのチャンスはガルドゥーンにもマイザーにも与えたんだ。お前たちはいくつもある選択肢の悉くを間違えた」
本当に一瞬だった。
ルッツとフロレンツの技術の差が具体的にどれほどあるのか、クラリッサにはわからない。だが、とてもとても大きく開きがあることはわかる。
だから床を蹴ったルッツに脅威を感じることはなかったし、フロレンツが怪我をするかもしれないと心配するようなこともなかった。
しかし、これほどまでに圧倒的であるとは。ルッツは、フロレンツの言葉を最後まで聞くことはできなかっただろう。
「ドナ、よく頑張ったな」
「オレはフロルの騎士だからな!」
フロレンツは床に伸びているルッツをオマケとでも言うようにひとつ蹴り飛ばしてから、ドナシアンに向けて柔らかな声を発した。
怒られると思っていたドナシアンは、予想外の言葉にニコリと笑う。
「だが、俺はリサの騎士なんだ。そこをどいてくれるとありがたいんだが」
「へいへい、おあついことで」
ドナシアンが頭をぽりぽりと掻きながらクラリッサの前から離れる。右手に持った木剣は、ぐったりとしているルッツに投げつけられ、クラリッサは密かにルッツの鎮魂を祈った。
「それで、どうしてここに……いや、その前に格好をどうにかしないとな。ドナ、シーツかなんかあったら持ってきてくれ」
クラリッサが我に返って自分の姿を見下ろせば、生地が破れてペラペラしているデコルテと、むき出しになった足。確かに、ひどい有り様だ。
「ちぇー、人使い荒くない?」
「騎士を名乗るなら、紳士であれ」
唇を尖らせたドナシアンが部屋から出て行ってふたりだけの空間になると、クラリッサは纏う生地の面積が少ないことが急に心細く、恥ずかしくなった。
机の陰を求め、膝立ちの状態から両手をついて犬のように這って逃げ出そうとするクラリッサに、ふわりと温かなものがかけられる。鼻腔をくすぐるムスクの香りに、フロレンツがジャケットをかけてくれたのだと気づく。
「随分と軽率な行動をしたね」
「だって」
「なに」
「ド……いえ、はい、軽率でした」
子どものせいにするのは大人としてやってはいけない気がした。そもそも、彼が脱走できるほどの隙を見せたのが良くなかったのだ。
油断、軽率、不覚、何を言われても頷くしかない。
「あと」
「ん?」
「ドレス、せっかくいただいたのにごめんなさい」
むき出しの足を見て、クラリッサは急に悲しくなった。
今朝はこのドレスが嬉しくて嬉しくて、何度も鏡の前に立ってはくるくると回っていたのに。自分でやったこととはいえ、失ったものは取り戻せない。
自分の膝を胸に引き寄せて腕で抱えると、フロレンツが目線を合わせるようにしゃがみながらくしゃりとクラリッサの頭を撫でた。
「ほんとに、しょうがないね、君は」
フロレンツはクラリッサに対して物を言うときには口調が変わる、と少し前から気づいていた。
それは高圧的なだけの王子様ではなく、まるで昔からの気の置けない友人に接しているようで、クラリッサの心にぽわんと明かりを点してくれる。
(それにこの呆れたみたいな、だけど優しい笑顔が好きだなぁ……)
「好き……」
「え?」
「え? あっ、違うの! ドレスがね! このドレス好きだったから残念だなって」
(心の声が漏れたぁー!! しかもめっちゃ否定しちゃったー!)
クラリッサはゆるゆるになっている口をぎゅっと引き結んで、頬をバチバチと両手で叩いた。
慌てすぎて必要以上に否定してしまった。別に、少しくらい気持ちがバレたって構わないのに。むしろこれから振り向いてもらえるように、友愛以上の感情を持ってもらえるように、頑張らないといけないのだから。
「そうか」
穏やかな声に恐る恐る様子を伺うと、フロレンツは仕方なさそうに目尻を下げて笑っていた。
「ドレスはまた新しいものを作ろう。今度もまた君に気に入ってもらえるようにするから」
その言葉にクラリッサの鼓動が少しずつ加速していく。
たいしたことを言われたわけではない。自分ばかり変に意識してはいけない。だが――。
(こんなの、期待しちゃうじゃん。ちょっとくらい、自惚れてもいいのかな)
温度を上げた頬を悟られないように、クラリッサはフロレンツのいないほうを向いて膝に頭を乗せた。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。家の権威を取り戻すために奮闘中。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。悪しきを正すために奮闘中。
●ドナシアン:孤児院の年長の男の子。近衛になってフロレンツを守るのが夢。
●ルッツ:ルッツ・マイザー。元官吏省北方管理部長アウグストの息子。
今回登場用語基礎知識
●官吏省:国政にまつわる人事のほとんどを担う部門。代々グレーデン家が大臣を務める。




