第71話 反貴族派の襲撃⑤
地下室から階段を駆け上って1階に顔を出す。クラリッサが思っていたよりも、孤児院の中は静かになっていた。
銃声はもちろん、金属がぶつかり合う音もしない。ただ、怒声は飛び交っている。おかげで、警ら隊の面々や犯人の一味のほとんどは1階にいるらしい、というのはわかった。
クラリッサは、以前ここを訪れたときにかくれんぼで得た建物内の情報を頭に思い描く。
1階は食堂や教室、それに遊戯室など子どもたちが生活するための場所で、一部屋一部屋は大きくないが部屋数が多い。対して2階は院長の私室と教師の宿直用の部屋、そして教師たちの執務室の三部屋だけ。
警らの怒声の中に子どもを叱るものはない。すでに保護されているのならいいが、そうでないなら警らの目に触れないところにいる可能性が高い。
(2階を先に見てみようか……。下にいて私が警らの邪魔をしても良くないし)
地下室へ続く扉は階段の脇にある。ふらふらと徘徊するよりこのまま2階へ上がってしまうのが全方向に対して賢いやり方のように思えて、クラリッサはギシと音をさせながらゆっくり上へのぼって行った。
階段をのぼりきって一番手前にあるのが教務室だ。そこそこの広さがある部屋で、机が所狭しと並んでいる。かくれんぼではこの部屋は使わないという暗黙の了解があるらしく、クラリッサも最初の挨拶に訪れただけで中には入っていない。
勝手に開けていいのだろうかという思いが頭をよぎったが、この緊急事態にわざわざノックをして返事があろうはずがない。返事があったらそれは異常事態だ。
ドアノブを握って、そっと押し開ける。ドナやフロレンツの姿を探すだけでいい。
クラリッサの拳ひとつぶんほど扉を開けて部屋の中を覗き込む。特に人影は見えないし物音もしなかった。
体の小さいドナなら、もしかしたら机の影に隠れているかもしれない。そう思って、扉を押し開ける。
「ドナ……? ドナシアン、いる?」
室内は静かなまま、ただ窓の外で木が揺れただけ。机と机の間を一列一列確かめたが、子どもどころかオモチャのひとつも落ちてはいない。
クラリッサは唇から漏れた息のわずかな音で、いかに自分が緊張していたのかを知った。犯人の中の誰かが隠れていやしないかとビクビクしていたのだ。
(早く、早く見つけないと)
同時に、焦燥感がクラリッサを襲う。ドナはこんなに、喉がひりつくような場所にひとりでいるかもしれないのだ。この建物のどこかで震えているかもしれない。
どうかもうフロレンツに出会っていますように。そう願いながら教務室を後にした。
真ん中の部屋は宿直室だ。簡素なベッドと机がふたつずつあるだけ。もしここに探し人がいるなら、ほんの少し隙間を開けるだけでもすぐに見つけられるだろう。
教務室とそっくりなドアの前に立ってノブに手を伸ばしたとき、クラリッサの耳が僅かな物音を察知した。
(ここじゃない、隣の部屋……!)
それは最も奥にある院長室から聞こえて来た。
何かがぶつかるような音だ。続いて何か引きずるような音。正確に区別できるわけではないが、人がいないと発生しないタイプの音に思える。
先にそちらの部屋から確認すべく、クラリッサは爪先を廊下の奥へ向けた。キシ、と床が鳴る。
孤児院の数ある扉の中で一番しっかりした作りの扉は、開けるのに少し力が必要だった。
少しずつ扉を開けるが、人の姿は見えない。ふわりとカーテンが動いて、窓が開いているのがわかった。風が強い。だからドアがより重かったのかもしれない。
「ドナ? ここなの?」
怯えて隠れているなら、声をかけてやるべきだ。
扉を半分ほど開けたところで、部屋の隅の鏡に子どもではない人影があるのに気づく。体の一部しか映っていないが、警らの制服でないことだけは確かだ。
「……フロレンツ……?」
まさかそんなはずはないとわかっていながら、もしかしたらという思いでクラリッサはその名を呟いた。
本当にフロレンツだったらいつまでも隠れたままではいない。クラリッサの声に含まれる怯えを感じ取って、すぐにそれを払拭してくれるはずだ。そう思える程度には彼我の距離に自惚れているのだ。
(まずい……!)
足元からぞわぞわと這い上がってくる恐怖と焦りがクラリッサの足をその場に縫い付けた。
「殿下! ちょっ、お待ちください!」
窓の外から聞こえてきた王族の側仕えのものと思しき声は、室内の人影がフロレンツではないことを正式に各々に知らしめる。
一瞬の膠着状態は、もう崩れた。相手もすぐに動き出すだろう。
(逃げなきゃ――)
走り出そうと右足を後ろへ引きながら重心を移動させたクラリッサは、思いがけず内側から大きく開かれた扉にバランスをくずされた。次いで伸びて来た手がクラリッサの腕を掴み、吸い込まれるようにして室内へ入る。
「わっっ」
ポイと放り出されたクラリッサがようやく体勢を整えて顔を上げたとき、すでに院長室の中ほどまで来てしまったことを知る。
慌てて振り返ると、閉じたドアの前に若い男が立っていた。犯人は反貴族派の民衆たちであると聞いていたが、それにしては身なりが整っている。衣類もかなり上等なものだ。
「あなた、誰……?」
「ふっ、知らないか。そりゃそうか。おまえ、例のアイヒホルンのご令嬢だろ?」
「えっ……」
「なんでわかるんだって顔だな。ま、有名だし……王子殿下つかまえて呼び捨てとは、あらかたカラダ使って懐柔でもしたか?」
男の目が嘗め回すようにクラリッサの体のラインを辿る。
「そんなわけないでしょ」
「だがドレスはグチャグチャだ。そういうプレイが好きなのか?」
クラリッサは思わず破れた左の肩口に手をやった。最初に通路から地下室へ入った際にデコルテのシフォン素材を引っ掻けて破いてしまったのだ。
ドレスの裾はナイフで切り裂いているし、それにたったいま左足のヒールが折れてしまった。確かにひどい格好だと自嘲しつつ、左右の靴を脱いで遠くへ放り投げる。
「それで、あなたは誰なのかって聞いてるんだけど」
一歩ずつクラリッサへ向けて近づく男の背後で、扉のドアノブが回ったようにクラリッサには感じられた。
それが敵か味方かわからないが、ドアが開いたときに男の意識が逸れるのは確かだ。それが状況を一変させるきっかけになるかもしれない。
男との距離を詰められすぎないよう、クラリッサもまた少しずつ後退る。
「ごく最近、家が取り潰されることになった――と言えばわかるかな」
男は首を傾げて睨め付けるようにクラリッサを見つめる。口元には笑みを浮かべているが、それが自嘲ないし諦観からくるものであることは確かに思えた。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。家の権威を取り戻すために奮闘中。
名前だけ登場の人
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。悪しきを正すために奮闘中。
●ドナシアン:孤児院の年長の男の子。近衛になってフロレンツを守るのが夢。




