第65話 素敵なお庭で①
孤児院に出かけた日からクラリッサは怒涛の日々を送っていた。
多くの時間は議会へ提出するための資料を作成することに費やされたし、次いでフロレンツとの打ち合わせも多かった。
それでいてダンスやマナーの授業は変わらず続けさせるのだから、あの王子様は鬼畜なのだろう。
だがそんな地獄の日々も、昨日で終わった。ゲシュヴィスター制度の改革案について議会のお歴々の前でプレゼンをしてきたのだ。
思ったよりもお偉方の反応が好意的だったのは、12年前の事件の審議が予定より早く進んで終盤となっているせいだろう、とフロレンツが説明していた。
全容は明らかにされていて、ガルドゥーンやマイザーへの処罰はすでに決定したらしい。残すはギーアスターの審議のみとなっている。
制度の改革は今後ゆっくり詰めていけばいいことで、当面はアイヒホルンの復権を祈りながらコネクションを醸成するフェーズに入った。
コネクションの醸成。
そう、この日クラリッサは光沢のあるベージュのドレスを身にまとって、フロレンツと共にピッケンハーゲン邸を訪れたのだ。
せっかくだから華やかにしましょうとカルラが準備したドレスは、裾に濃紺の糸で蔦模様が刺繍されている。
次シーズンに流行すると言われている柄で、つまりこれは新調されたばかりのドレスだ。カルラに聞けば今までに3着ほど新しいドレスがフロレンツから贈られているのだとか。
どうやらアウラー家に送り込まれたお針子が計測したクラリッサの身体データは、王家お抱えのデザイナーの手元にあるらしい。
いまクラリッサもフロレンツも、社交ひとつ、ドレス1枚だって気を抜けない段階にある。フロレンツはドレスを用意できないクラリッサに代わって、用立てているに過ぎない。
が、嬉しいものは嬉しい。バジレ宮を出る前に鏡の前で何度もくるくる回ってニヤけるくらいには、嬉しかった。
「飴玉でもつまみ食いしたみたいな顔をしてどうした」
「えっ! なんかおかしかった?」
「ああ、口元がもごもごしていた。先ずピッケンハーゲン伯に挨拶に行くらから、飴食べてるならしっかり隠しておけ」
「食べてない食べてない」
ピッケンハーゲン邸に到着して会場へ通されると、全ての視線が集まったのがわかった。この衆目の中で変顔をしていたというなら、恥ずかしい限りである。
ドレスが嬉しかったのが、表情に出てしまったらしい。クラリッサは顔が赤くなるのを感じて右手で頬を冷やしながら、フロレンツと並んで本日のホストへ挨拶へ向かった。
夫妻と息子のクルトが並んで歓迎する。
クルトはクラリッサたちよりも5つほど年上で、ハインリヒやエリーザのゲシュヴィスターである。ただ気難しい性格が敬遠されてか、未だ婚約者がいない。
「いやあ! 殿下がおひとりでいらっしゃらないとは、驚きが隠せませんなぁ」
「クラリッサ様、よくおいでくださいましたね」
夫妻の歓迎ぶりは、フロレンツの読みが正しいことを示す。クラリッサもホッとして自然に笑みがこぼれた。
他の貴族たちもざわざわとこちらを見ているので、意図した効果は十分に得られるはずだ。
「ク、クラリッサ嬢。良かったらボクとファ、ファーストダン――」
「失礼。この庭があまりにも素晴らしいから俺も久しぶりに踊ってみたくなってね。その相手を彼女にお願いしたんだ」
クルトがどこか別の場所を見ながらクラリッサにダンスを申し込むと、フロレンツは涼しい顔をしてそっとクラリッサの腰を抱いた。
横で見上げたクラリッサは、無表情の中にも余所行きの無表情があるらしいと知る。いつもより幾分か穏やかだ。問題は、その違いに気づく人が恐らくいないことなのだが。
(ぜんぶ同じ顔に見えるのに、全然違うのずるい……!)
知れば知るほど、この無表情にどんなバリエーションがあるのかともっと知りたくなる。新しい無表情を知れば嬉しくなる。コレクター泣かせだ。
それより、とクラリッサはフロレンツの咄嗟の機転に改めて感謝した。
攻略すべき貴族からの誘いを断ることは、クラリッサにはできない。きっとクラリッサが否定的な言葉を口にすれば、今後ピッケンハーゲン伯の協力は期待できなくなっただろう。
しかし普段踊らないフロレンツを、ピッケンハーゲン邸の庭がその気にさせたとあればアントンやクルトのメンツも潰れない。
事実彼らは「どうぞどうぞ」と言わんばかりの様相で楽団に合図をしていた。
「さ、練習の成果を見せてもらおうか」
「おまかせください」
クラリッサはこれでも2ヶ月近くバジレ宮で修行している。公の場で踊るのはずいぶんと久しぶりだが、少なくともフロレンツの足を思いっきり踏みつけるような失敗はしないだろう。
予想通りと言うべきか、予想に反してと言うべきか。クラリッサはまるで背中に羽根でも生えたかのように軽やかに踊ることができた。
以前フロレンツとふたりで踊ったときと同じように身体が自然に動く。クラリッサに教えてくれる先生と踊るよりもずっとスムーズだと感じるのは、気持ちの問題だろうか、それとも。
「上達したな」
「へぁっ……!」
「おい、前言撤回するぞ」
「だってぇ」
上達したと言うフロレンツはクラリッサじゃない誰が見ても笑っていた。
生まれたての子猫を愛でるときみたいに、または最新のスイーツを眺めるときのように、とろけるような幸せそうな目で笑う彼を見て呆けない人間はいないはずだ。
(この笑顔はご褒美すぎる! 今までの修行ぜんぶ報われる……!)
見とれて動きが止まりかけたクラリッサを、フロレンツがまたさりげなく支えてフォローした。
結局失敗してしまったが、これはフロレンツが悪いと思う。それにフロレンツ自身も機嫌がいいのか、とびっきりの笑顔のまま踊り続けたので、クラリッサはそのうちまた自分のペースを取り戻すことができた。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。家の権威を取り戻すために奮闘中。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。悪しきを正すために奮闘中?
●アントン:ピッケンハーゲン伯爵。行政府で大臣の補佐をする。
●クルト:ピッケンハーゲン伯爵家長男。気難しいピュアッピュア男子。
名前だけ登場の人
●ガルドゥーン:ゲレオン・ガルドゥーン伯爵のこと。武官省兵装管理部長。
●マイザー:アウグスト・マイザー伯爵のこと。官吏省北方管理部長。
●ギーアスター:グンター・ギーアスター伯爵のこと。文部省の大臣でアメリアのパパ。
今回登場用語基礎知識
●ゲシュヴィスター制度:兄弟姉妹制度。5~10歳の同年代の貴族の子が集まり基礎教育を受ける。元は王族の情操教育が目的。




