第64話 ヒビコレベンキョウ④
汚れてもいい服装で。フロレンツからの指示に納得したのは、目的地に到着してからだった。
エレアリナ孤児院。定期的にフロレンツが訪れ、寄付をしている施設だ。フロレンツの姿を見るなり、子どもたちが集まってくる。
フロレンツの隣にいるクラリッサのことも興味津々で見上げていた。
「この人誰だ! 兄ちゃんの彼女か」
遊ぼう遊ぼうと騒がしい子どもたちの中で、最初にクラリッサについて言及したのは最も年長に見える男の子だ。名をドナシアンと言い、この孤児院ではリーダー的な存在なのだという。
「ちが、私は――」
「ああ、そうだ。だから迷惑かけんなよ」
「えっ」
耳を疑う言葉にフロレンツを見上げると、彼は子どもたちに聞こえないようクラリッサの耳元に口を寄せた。
「説明が面倒だろう。そういうことにしとけ」
(ですよねー。わかってたけどさぁ……)
わかっていても、心臓には悪い。フロレンツの言葉に深い意味はないとわかっていても、胸の高鳴りはそう簡単には治まらないのだ。
「彼女の名前なんての?」
「クラリッサ、だよ」
見上げるドナに、できるだけ聞き取りやすくはっきり回答したが、やはり幼い子ほど正しく発音するのは難しいらしい。
くら。くらる、らりさ。うらりーさ。
四方から舌足らずで可愛らしい声の合唱が起こり、ドナがうるさいうるさいと黙らせた。
「リサでいい?」
ドナ少年の提案を被るような速さで却下したのはフロレンツだった。
「クララにしとけ」
「リサのほうがいい」
「駄目だ。リサは俺専用」
フロレンツの言葉は、クラリッサを除くその場の全員――恐らくその意味もわかっていなさそうな幼い子どもも含めて――の視線を集める。
クラリッサは、一度は冷めたはずの頭にかあっと血が上り、瞳を閉じて三度深呼吸する必要があった。
(え、なに? なにが起こってるの? 専用ってなに?)
「はぁ? 惚気てんじゃねーぞエロジジイ!」
「あ? やんのかドナ?」
クラリッサが頭を抱えている間に、ドナとフロレンツの間では唐突にチャンバラが始まってしまった。
男の子たちはみんな、広い遊戯室の片隅にあった木剣を手にフロレンツへと切り掛かる。
女の子や、チャンバラにはまだ早いような小さな子どもたちが、クラリッサの手を引っ張っては遊ぼうとせがむ。
結局、遊戯室の端で本を読み聞かせたり、文字や算術を教えたりすることになった。
クラリッサたちのいる場所から、フロレンツの姿はよく見える。
彼はなかなか上手にできない子や、輪に入りづらそうにしている子を中心によく面倒を見ていた。それは当たり前のことのようで難しいと、クラリッサは思う。
「あたしフロルが大すきなの。しつれんしちゃった」
ドナシアンよりは少しだけ年下らしい女の子エルマは、クラリッサの横にちょこんと座って絵本を読んでいたが、クラリッサの視線を追うようにフロレンツを見上げて呟いた。
「フロル?」
「ふろれんつのこと! みんなフロルってよんでる」
「女の子みたいね」
「うん、かわいいでしょ。……あなたならゆるしてあげる。フロルのこと大事にしてよね」
おませなエルマは少しだけ怒ったような、一生懸命さを隠しもしない表情でクラリッサに訴えた。
「うん、もちろん」
恋人であることが嘘でも、大事にしたいという気持ちに嘘はない。エルマの真っ直ぐな気持ちに、心を込めて返事ができることに安堵する。
エルマもまた安心したように笑って、絵本に視線を落とした。
そこへ職員と思しき年配の女性がやって来て、クラリッサの近くに腰かけた。
「殿下にはいつも本当に助けられています」
「そうですか」
「こうして子どもたちの面倒を見てくださるから、教師は休憩がとりやすくなるしお掃除も捗るし……なにより、子どもたちが本当に楽しそうで」
子どもたちは全部で15名いる。年齢もバラバラで、年長の子が面倒を見るにしても限度があるだろう。職員の負担はいかばかりかと思う。
クラリッサはほんのちょっとの時間を、半数の子の面倒を見るだけでも大変だなぁと感じているのだから。
実感を込めて頷くと、女性も微笑んで言葉を続けた。
「国に不満を持つ人も少なくないけれど、王族の人となりを自分の目で見ることができるこの子たちは幸福です。ドナなんて、いつかお城で働くんだって言ってるんですよ」
「お城で……?」
「はい。近衛になって殿下を守るんだって」
フロレンツに何度打ち倒されても立ち上がって剣を構える少年が、クラリッサにはとても眩しく見えた。
(負けてられないなぁ……)
子どもたちの前途には可能性が満ちあふれている。親がいなくたって、夢を叶えるために何度倒れても立ち上がっている。
クラリッサには親がいて、家があって、名ばかりとはいえ地位がある。その地位だって、過去の栄光を取り戻そうとしているのだ。俯いている暇なんてない。
「クララ! かくれんぼしようよ」
絵本に飽きたらしいエルマが、クラリッサの袖を引っ張った。
◇ ◇ ◇
エルマとふたりで鬼役を仰せつかったクラリッサは、建物中を走り回って次々に見つけて行ったのだが、どうしてもふたり見つからない。
「どこ行っちゃったんだろう」
「こっち!」
クラリッサが途方に暮れていると、エルマが階段の脇で手をぶんぶんと振っていた。
上階はもう三度も見回ったのにと思いながら近づくと、エルマは階段の陰に隠れた木戸を開いて見せた。扉の向こうは地下へ続く階段になっている。
エルマの後を追って地下へ潜ると、さほど大きくはないヒヤリとした部屋に出る。
棚や木箱がいくつもあり、そこが倉庫なのだということがわかる。
「ここ!」
幼い少女の指さした先にも木箱があって、それをずりずりと移動させると裏側に古い木戸があった。
「え。これはなに?」
「なんかね、お外の物置小屋につながってるの。でももうドアがこわれててね、これしか開かないんだぁ」
エルマが開いて見せた木戸は全体の3割程度しか開かず、大人が通るのは難しそうだ。
「先生たちにはないしょね!」
木戸の向こう側へと姿を消したエルマがふたりの子どもを連れて戻ってくるまで、クラリッサは倉庫をおろおろと歩き回った。
小柄とはいえクラリッサのサイズではもうその木戸を潜るのは難しそうだし、それになにより、向こう側が真っ暗だったのがいけない。
エルマだけを行かせてはいけないと思う一方で体はまるで動こうとせず、闇に消える小さな背中を見つめることしかできなかったのだ。
フロレンツとクラリッサはお昼前に孤児院をあとにしたが、クラリッサにとって学びの多い時間になったのは間違いない。
何度でも努力すること、フロレンツの新たな一面、それから、弱点を克服しないと守るべきものが守れない可能性、だ。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。暗くて狭いところが嫌い。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。ゲシュヴィスター制度の研究という名目でいろいろ暗躍中。
●ドナシアン:孤児院の年長の男の子。近衛になってフロレンツを守るのが夢。
●エルマ:孤児院のおませな女の子。フロレンツが好きだったがクラリッサに譲った。




