第58話 お似合いの相手④
ハインリヒとエリーザの周囲は、ちょうど挨拶がひと段落したところだったのか人混みというほどではなく、クラリッサが思っていたよりずっとスムーズにお目通りがかなった。
「クラリッサね、久しぶり。会えて嬉しいわ」
「ああ、クラリッサか。随分と素敵なレディになったね」
「ハインリヒ殿下、エリーザ様、ご無沙汰しています。ええ、おかげさまでこうして元気にしてますわ!」
クラリッサがハインリヒに会うのは12年振りになる。バジレ宮にはハインリヒも時折顔を出してはクラリッサたちと遊んでくれたのだ。
会ったことがあるという記憶はあっても、ハインリヒの容姿まではほとんど覚えていなかった。フロレンツによく似ているが、彼よりもずっと優しそうで腹黒い雰囲気がある。
王位に就く者のオーラというべきだろうか。正面からぶつかってもうまく利用されるだけ、に思えてしまう恐ろしさがあった。
「フロレンツ殿下の研究を手伝っていらっしゃるって聞いたけれど」
「ああ……手伝って……ええ、まあ」
フロレンツがバジレに集まるメンバーについて、文部省にそのように申請していることは知っている。しかし、実際のところはクラリッサが手伝っていると言うよりむしろ、フロレンツが家の問題を解決しようと動き回っているのだ。
ついつい、曖昧な返事になってしまう。まさかここでも曖昧微笑スキルが役に立つとは。
「それは助かるよ。最初はバジレ宮で一体何をするのかと思ったけど、素行は良くなるし結婚にも前向きになるし、万々歳だ」
「結婚に前向き?」
ハインリヒの言葉に、思わず聞き返す。フロレンツファンのビアンカの情報によれば彼は結婚する気はないみたい、とのことだったが。
「そう。いつもその手の話になるとどこかへ逃げてしまうのに、この間父上が話を振ったら『後日改めて話を』って言うんだ。間違いないよ」
一瞬だけハインリヒの瞳が妖しく揺らめいたように見えたが、それは柔和な笑顔があっという間に隠してしまった。
エリーザが可愛らしく首を傾げる。
「それは、どなたかに恋を?」
「どうかな。単純に、覚悟を決めたとか諦めたとかそんなところだと思うよ。一生独身という選択肢は許されないし、それに父上からはグラセアとの国交強化を言い渡されてるんだから。シャンタル王女殿下か、グラセアと縁のあるローゼンハイムか」
できればもう少し話をしたいところだったが、ヴァルターの父エグモント・ペステル伯爵がハインリヒへ挨拶に来たため、クラリッサとユストゥスはその場を離れた。
(結婚か……そっか……)
漠然と、フロレンツは結婚しないものだと思っていた。ビアンカもそう言っていたし、本人もそんな話題や空気をおくびにも出さないからだ。
(話題を出さないんじゃなくて、出す必要がないんだよね)
考えてもみれば、クラリッサにそんなプライベートな話をするわけがない。クラリッサはただ、たまたま彼が正したいと思った「過去の事件」の被害者にすぎないのだ。
「ん?」
肩を叩かれた気がして顔を上げると、苦笑するユストゥスが前方を指し示した。
笑顔で近づいてくるのはビアンカだ。クラリッサを呼ぶ明るい声が響く。
「クラリッサ! ねぇ、さっき噂で聞いたんだけど、フロレンツ殿下が結婚する気になったって」
「わぁ、耳が早いね」
キラキラ輝く瞳で、ビアンカがそう告げる。
クラリッサとユストゥスは思わず顔を見合わせた。まさか、ご令嬢たちの間でもう噂になっているとは。
「以前は結婚しないって仰ってたらしいから、もうみんな大騒ぎだよ! 王族なんだからさ、ほんとに独身を貫くのは無理だってみんなわかってはいるんだよ?
そのうち、グラセアのお姫様とかエルトマン家のクリスティア様とか、ローゼンハイムのシュテファニ様とか、それ相応の方との縁談がまとまるものだと思ってたんだけど」
「うん」
たった今、ハインリヒから全く同じ話を聞いたところだ。
こうやって当たり前のことを聞かされて初めて、クラリッサはフロレンツの未来や立場について何も考えていなかったことを思い知らされる。
「王族として仕方なく結婚ってわけじゃなくて、殿下のご意志で誰かを選ぶつもりなら、自分にも可能性があるんじゃないかって、みんな盛り上がってて」
「な、なるほど……?」
「わかんない? ウチだって政略結婚として王家に嫁ぐにはギリギリ足りないかもでしょ。五名家でもないし、パパは頭固いし、きっと他のおうちが許さないじゃない。
でももし殿下が望むなら婚約者候補に入り込めるってこと!」
ビアンカの言うことは恐らく正しい、とクラリッサは思う。
フロレンツに家柄も政治的にも相応しい相手を選ぶのなら、先にビアンカの挙げた3名の女性が全員辞退しない限り、他家のご令嬢にその幸運は巡ってこない。
もしそこにフロレンツ本人の一押しがあったら、と夢見るのは自然な発想なのかもしれない。
「でもそれって、ビアンカも立候補するってこと?」
ビアンカが口を開きかけたとき、会場内が大きくざわついた。主に若い女性が黄色い声をあげているのが目立つ。
「噂をすればだね」
ユストゥスの言葉で、それがフロレンツの到着だとわかる。思いのほか早い到着に、クラリッサの心臓がぎゅぎゅぎゅっと小さくなった。嬉しさと切なさで胸が痛い。
「クラリッサ、応援してくれるよね?」
「え、いや、え?」
ビアンカの瞳はまっすぐに戸惑うクラリッサを射抜く。
混乱したクラリッサが訳も分からず目を瞬かせていると、視界の中で地割れのように人混みがふたつに分かれ、その真ん中を悠々とこちらへ向かってくる人物が見えた。
「すまない、遅くなった。ロベルトにはもう?」
フロレンツは到着するやいなやクラリッサに状況を問う。その両脇でビアンカとユストゥスが礼をとると、フロレンツがそれぞれに一言ずつ声を掛けた。
黄色い声の女性たちは遠くでこちらを見ている。クラリッサはその視線に痛みを感じるとともに共感も覚えた。今は事情があるからこうして話しかけてもらえるが、本来ならクラリッサは向こう側の人間だ。
いや、フロレンツの姿をその目でみることすらできない側の人間だ。
「あ……いえ、主役ですからぜんぜん捕まらなくて」
「じゃあ、一緒に行こう」
フロレンツが余所行きの笑顔で一歩前に出たとき、まるでその歩みを止めるかのごとくビアンカが前方へと躍り出た。
「あの、殿下。本日のダンスのお相手はもう――」
「すまない」
ビアンカが言い終える前に発されたフロレンツの声は、冬の湖のように冷たい。
「時間があまりないんだ。主役に会って、それから何人かと挨拶をしたら帰る」
「……では、次回は是非」
震える声で次を願ったビアンカを、フロレンツは仄かに硬さのある表情で一瞥した。が、何も言わずにクラリッサに右手を差し出す。
「行くぞ」
「う、わ、はい」
ビアンカがそれ以上一歩たりとも動けないのと同じように、クラリッサにはその手を取る以外の選択肢がない。
女性からダンスに誘うのも、王族にむやみに何かを願うのも、褒められた行いではない。友達だというなら、クラリッサはビアンカを窘めなければならなかった。
だが、フロレンツを好きなクラリッサも、ビアンカを大事に思うクラリッサも、彼女を窘められる立場にない、と思う。
そして吐きそうなほどの胃痛を感じ、振り返ることができないままフロレンツとともに歩き出した。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。最近は令嬢レベルが上がって来たと自画自賛している。
●エリーザ:グレーデン伯爵家長女。クラリッサの従姉。王太子の婚約者。
●ハインリヒ:ウタビア王国王太子。フロレンツの兄。
●ユストゥス:グレーデン伯爵家長男。クラリッサの従弟。イケメンに育った。
●ビアンカ:アウラー伯爵家長女。クラリッサの親友。フロレンツのファン。
※名前だけ登場の人
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。ゲシュヴィスター制度の研究という名目でいろいろ暗躍中。
●ヴァルター:ペステル伯爵家長男。のんびり屋さんで絵描き。家を継ぎたくない。
●エグモント:ペステル伯爵家当主。ヴァルターパパ。いかつい。
●シュテファニ:ローゼンハイム公爵家一人娘。全貴族の憧れ。
●ロベルト:エルトマン公爵家長男。チャライケメンだけど実はヘタレ疑惑あり。
●クリスティア:エルトマン公爵家長女。ロベルトの妹。たぶん名前しか出てこない。
今回登場用語基礎知識
●グラセア:隣の国だよ!




