第44話 転がる心と緑豆④
奇術舞台での事件から1週間が経過し、クラリッサにはダンスや教養それに語学と、勉強漬けの日常が戻って来た。
ただ以前よりも授業時間は減り、一日の半分は制度の改革案について考えを巡らせるようになっている。実現可能性など全く考慮しないような思いつきをメモにとっては唸る日々だ。
そうした新しくも平和な日常にだって時には異常事態が発生するものであり、クラリッサにとっては今がそれだ。
クラリッサは今、フロレンツと向かい合って食事をしている。二人での食事は二度目だが慣れるわけもなく、テーブルの上には緊張感のカバーがかかっているようだった。目の前の食べ物にナイフを入れるのも一苦労で。
というのも、クラリッサは数日前にフロレンツ宛ての手紙を開封するという痛恨のミスをしているため、しばらくの間は顔を合わせないように避けていたのだ。
もちろん、手紙を開封したことそのものは隠しおおせるものではないため、すぐに謝ったのだが……。
『あの、すみません。表の封筒と一緒に切ってしまって……』
『中は見た?』
『えと、見てませ……見ました』
『そうか』
『あの、ごめんなさい。つい、その、事故ったっていうか……、不可抗力というか……』
『でも見た』
『……はい』
『しょうがないね、君は』
クラリッサがフロレンツを避けていたのは、叱られるからとか怖いからとかではなく、優しすぎたからというのが最も近い。
この時初めてフロレンツから『君』と呼ばれ、びっくりして顔をあげればあの優しい瞳で苦笑していたのだ。それを目にした瞬間に、クラリッサの心臓はぎゅーっと締め付けられた。
叱られるべきタイミングでキュンとしてしまったことには反省するが、顔を合わせたくない本当の理由は感情と心臓の制御が難しいことだ。完全に自分の気持ちを持て余してしまった。
今もまた、その時の優しい表情を思い出して頬がじわりと熱くなってしまう。どうか気づかれませんように。
「この、教師の資格試験を行うのと、テキストを統一するというのは準備にこそ時間がかかるが、取り掛かること自体は容易だな。反対意見は少ないだろう」
「えっ、あ、はい。そうですね」
クラリッサはうっとりふわふわした思い出と妄想の世界から、慌てて意識を引っ張り上げる。危うくフロレンツの言葉を聞き逃すところだった。
彼は食事の準備が整うまでの間にクラリッサの用意した草案に目を通しており、食事中の話題は全てソレに関する事柄だ。
「その準備をどう進めるかだが……」
「現在文部省へ登録している教師から協力者を募ってはいかがでしょうか。ランダム、または評価の高い順に指名しても良いかとは思いますが」
「ふむ。方法としてはその辺りが妥当か。それがうまくいけば教育の質については是正されるだろう。ではカスパル卿の提言の中でも根幹となる部分についてだが……」
真面目な顔で話をするフロレンツの手元では、スープから鮮やかな緑色の小さな豆だけが綺麗に仕分けされて、皿の隅に集められている。コロ、コロコロと。
クラリッサはそれが気になって彼のありがたいお話が頭に入らなくなった。
「制度へ参加するか否かが、例えばアウラー家のように親の一存で決まるというのは……」
コロ、コロロ。お皿の隅に溜め込まれた豆の数はもう6個、いや8個くらいあるようだ。
確かにフロレンツは昔からこの緑の豆が苦手だったなと思い出す。しかしまさか未だに克服できていなかったとは。しかつめらしい表情のフロレンツに、クラリッサは幼い頃の彼が重なって見えた。
「ぷ。くっ……」
「……なにがおかしい」
「だって、ふふ、それ。いまも苦手なんですね」
「あ――」
ちょっと拗ねたようにそっぽを向いたフロレンツの赤くなった耳に、クラリッサはまたひとつ胸がトク、と高鳴る。
(なんだろう、この気持ち)
好きだなと思うたびに泣きたくなる。誰かを好きになったことが嬉しいからなのか、この気持ちが叶いっこないとわかっているからなのか、わからない。
ただ切ないのと同時に、いやそれ以上に幸せもあるから、きっとこのままでいいのだと言い聞かせて笑顔を浮かべた。
「それで、えっと、制度への参加についてでしたね」
意識して作った曖昧ではない笑顔で何かを誤魔化して、話を本題に戻す。フロレンツも戸惑いをいつもの無表情に変えてクラリッサへ向き直った。
「地方は制度を利用しない家が多いんだが、知人ができづらいとか基礎教育が不足するといった問題がある」
「基礎教育を義務化しては」
「は? だがそれでも地方の教育は」
「子供たちだけ王都に集めちゃいませんか? 基礎教育に限定するならそれが最も効率がいいはずです」
フロレンツは目を丸くしてから、スプーンを置いて腕を組んだ。実現可能か否か考えているのだろうか。
もしそれが可能ならば、情操教育の面でも知人を得るという意味でも問題は解決されるはずだ。それに何より、小さなコミュニティだからこそ強固に築かれる親同士の癒着や馴れ合いが阻止できるのが大きい。
目の前の皿に山と積まれた豆がコロ、と一粒転がったとき、フロレンツが顔を上げた。
「悪くない」
「ふふ、ありがとうございます」
「だがそれを平民のようだと嫌がる者は一定数存在するだろうが、どうする」
王都をはじめとした国内の都市圏には、ある程度裕福な平民の子供たちが集まって学ぶ学舎が存在する。
ゲシュヴィスター制度は、王族から始まったという歴史と、少人数に対する高水準な教育とが貴族と平民とを差別化していた。けれども、ゲシュヴィスター制度に固執することで貴族の子の教育が不足しては本末転倒なのだ。
「それこそ、『ネゴっておくべき』ことかもしれません」
「あっはっは! そうだな。ロベルトを言いくるめようか」
その後クラリッサとフロレンツは、基礎教育を終えた子供たちの次なる進学先について議論したり、いずれ民の教育もテコ入れをして水準を上げたいと夢を語ったり、話が尽きなかった。
問題点を見つけてはひとつひとつ解決しようとするフロレンツの姿は、クラリッサにとって眩しく、そして頼もしく映る。
その一方で、問題を解決できるだけの力を持つ人物であるという事実に彼我の距離を感じて、心の隙間からぽろぽろと寂しさがこぼれ落ちた。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。暗くて狭いところが嫌い。フロレンツが好き。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。無愛想でとっつきにくいけど、実は例のあの子だったことが発覚。
名前だけ登場の人
●カスパル:クラリッサの祖父。元文部省大臣。故人。
●ロベルト:エルトマン公爵家の長男。仕事のできる一途なチャライケメン。軽いのは確か。
今回登場用語基礎知識
●ゲシュヴィスター制度:兄弟姉妹制度。5~10歳の同年代の貴族の子が集まり基礎教育を受ける。元は王族の情操教育が目的。




