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第43話 転がる心と緑豆③


 振り返るとそこにはヨハンが静かに立っていた。クラリッサは慌てて目の前の本を閉じて笑顔で応じる。


「こんにちは、ヨハン」


「貴族名鑑、ですか?」


 ヨハンの視線がクラリッサの手元を捉え、慌てて手をパタパタと振って誤魔化すが、もう隠すことは不可能だ。


 困ったときの鉄板になりつつある曖昧な微笑みで小さく首を振って、貴族名鑑からヨハンの意識を逸らそうとなるべく自然になるように話題を変える。


「ふふ、ちょっと調べものを。あ、そういえばベンノ様からサトセーヌ劇場での公演にご招待いただきましたよ」


「ああ。あれは兄が『こけら落としは絶対にバラー座だ』と言って聞かなくて、職権乱用したらしいです」


「まぁ、イザーク様が?」


 ヨハンには兄がいる。数年前から父であり財務省の大臣であるベンノを手伝いながら業務を学んでいるはずだ。

 サトセーヌ劇場は国立であり、その建設には財務省も大きく関わっているのだろう。


 問題なく世間話に移行できたことに安堵しつつ、クラリッサはこの会話の中でふと可能性の一つに気づいて息を呑んだ。


 ガルドゥーンにオスヴァルト、それにハーパーも。ホルガーの手紙に記載のあった家名には共通点がある。


(ゲシュヴィスター……!)


 彼らは、ゲシュヴィスター制度で繋がりがあったはずだ。参加者が全員男の子だったのはゲシュヴィスター制度の歴史の中でも初めてのことで、今でもたまに話題になるのをクラリッサも聞いた覚えがある。


 ハーパー家はヨハンの兄イザーク、オスヴァルト家はカトリンの二番目の兄レオン。ガルドゥーンのゲアノートと、マイザーのルッツ。

 そしてもうひとり、このゲシュヴィスターのホストをつとめたのは……。



「しかし思ったよりお元気そうで安心しましたよ。大変でしたね」


 ヨハンが椅子を引いてクラリッサの対面に座り、クラリッサは思考を中断した。

 ひとりの時間を大切にしたいと言うヨハンだが、クラリッサが相手だと会話することにも積極的な印象だ。庭で日向ぼっこするときにもみんなと喋ればいいのに、と思う。


「私、暗くて狭いところが苦手で」


「ええ。この事件のあとで知らない人間はいません」


「きっかけになった子どもの時の事故を、今まで忘れてたんです。いえ、無意識に思い出さないようにしてたんでしょうね」


「あれを事故と呼ぶんですか」


 ヨハンが切れ長の目をまん丸にしたが、クラリッサはその質問には回答できない。もしあれを事故と呼ばないのなら、アメリアの故意ということになってしまうのだから。

 仮に誰もがそう思ったとしても、証拠もないのに人為的なことだとは言いたくない。


「ヨハンはこの前、私がよく一緒にいた子のことを、好きだったんじゃないのかって聞きましたね」


「ええ」


「あの事故のとき、恐怖と一緒にあの頃の気持ちもまた忘れてしまってたみたいで。だからね、今回は大変だったけどそれらを思い出させてくれたことに感謝してるんです」


 クラリッサが困ったように笑う。

 アメリアは確かにクラリッサに嫌がらせを試みたが、その特別な仕掛けは皮肉にも、クラリッサに大切な気持ちを思い出させることに成功した。

 とても怖かったし苦しかったけれども、結果オーライ、なのだ。


「偽善も過ぎれば滑稽ですよ」


 ヨハンの言葉にクラリッサは笑う。仰る通りだ。それでもヨハンはクラリッサの言い分に一定の理解を示し、ふたりはクスクスと笑い合った。

 想定外の事態にアメリアはきっと悔しがっているかもしれないね、と。



「ヨハンはアメリアと仲が良かったと思うのですけど」


「昔の話です」


 おずおずと問いかけたクラリッサの言葉に、ヨハンは眉を寄せながら頷いた。


 この質問にクラリッサは自信があったわけではない。庭でひとりで読書をするヨハンに違和感があったのは、もしかしたらアメリアがいないからではないか、と思ったのだ。


 彼らふたりの兄はギーアスター家がホストを務めたゲシュヴィスターの仲間として深い交流があった。それぞれの弟妹であるヨハンとアメリアもまた、バジレ宮へ集められる前から交流があるのは当然のことだ。


「『何者にも邪魔されない自分の時間』が欲しいって、ヨハンの本当の願いなんです?」


「おかしなことを言う人ですね」


 ヨハンは次第に表情を硬くさせる。エメラルドグリーンの瞳が歪に細められ、唇を引き結んで。クラリッサにはその表情が、これ以上この話はするなと言っているように見えた。


 だが、言葉を止めることはできない。ヨハンは昔いつもアメリアの傍にいたような、そんな気がするのだ。もしかして今も本当は、と。


「だって、なんだか辛そうに見えました」


「貴女になにがわかる!」


 右の手のひらで机を叩いて、ヨハンが立ち上がった。クラリッサはその音にもヨハンの様子にも驚いて声が出せない。まさか怒鳴られるとは思ってもいなかったのだ。


 すみませんと呟いて立ち去る背中に、クラリッサは何も言えないまま深く息を吐き出した。


(ああもう……! 私、何してるんだろ)


 ホルガーの手紙を覗き見たり、知らないほうがいいとフロレンツに言われたことを勝手に調べようとしたり、挙句の果てにはヨハンを怒らせた。


(最低だ、私)


 クラリッサはもう一度だけ大きく息を吸ってゆっくり吐いて、そして席を立った。



今回登場人物紹介

●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。暗くて狭いところが嫌い。フロレンツが好き。

●ヨハン:ハーパー伯爵家の次男。本の虫。ひとりが好き。


名前だけ登場の人

●イザーク:ヨハンの兄。ハーパー伯爵家の後継者。財務省に奉職。

●ベンノ:ハーパー伯爵家当主でヨハンの父。財務省大臣。

●カトリン:オスヴァルト伯爵家の長女で末っ子。世間知らずのお嬢さん。もちもち。

●アメリア:ギーアスター家長女。意地悪。縦巻きロールがチャームポイント。

●ホルガー:アウラー伯爵家当主。武官省大臣。昔からよくクラリッサの面倒を見てくれる人。

●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。無愛想でとっつきにくいけど、実は例のあの子だったことが発覚。


今回登場用語基礎知識

●財務省:国家財政および地方行政の監督。現在はハーパー家が大臣。

●ゲシュヴィスター制度:兄弟姉妹制度。5~10歳の同年代の貴族の子が集まり基礎教育を受ける。元は王族の情操教育が目的。

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― 新着の感想 ―
[良い点] お、おや? もしやヨハンさん黒幕? ヨハン→アメリア……なのかなぁ? 案外クラリッサだったりとか?
[一言] フロレンツ→クラリッサ ロベルト→カトリン ヴァルター→シュテファニ ヨハン→アメリア なるほど( ˘ω˘ )
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