第38話 禍を転じて福と為す⑥
「ねぇクラリッサ」
フロレンツの足を引っ張った。そう思ってクラリッサが両手をぎゅっと握ったとき、すぐそばに座り直したシュテファニが顔を近づけた。
シュテファニの小声に合わせてカトリンも四つん這いになってさらに傍に寄る。まさか、良家のお嬢様の四つん這いをこの目で見ることになるとは思わないクラリッサは、上擦った声で反応した。
「ひゃ、ひゃい?」
「こないだ、『ヴァルターブルー』のことをなんて言っていたの?」
思わず、視線だけでヴァルターの様子を伺った。彼はすでに描き途中の絵と向かい合って集中し始めているようだ。そうでなくても、距離もあるし小声なら彼に届くことはないだろう。
言っていいものか悩まないわけではなかったが、クラリッサはもうシュテファニを怒らせたくはない。それに彼女はもうクラリッサにとって、「芝生に直に座る」仲間だ。裏切ることはできないというもの。
クラリッサは念のため一層声をひそめて回答した。
「ヴァルターが必ず描くあの空の色はね、実は……シュテファニの瞳の色なんです。私はそれを小さい頃に教えてもらってて――」
言葉を終える前に、シュテファニは林檎のように真っ赤にした顔をクラリッサの肩に埋めた。彼女がこんなにも動揺するのを、クラリッサは初めて見る。
なんという可愛らしさだろうか。若い世代の貴族の子女なら誰でも一度は憧れると言われるシュテファニが、真っ赤になって身もだえている。何事にも動じない公爵令嬢が、だ。
「ねぇねぇ~、それって、アタシが似た色のリボンを集めるのと同じ感じかなぁ~」
ハーフアップにしたカトリンのふわふわの髪には鳶色のリボンが揺れている。言われてみれば確かに、カトリンはいつもこのカラーの髪飾りを身に着けていると気づく。
鳶色で思いつくのはロベルトだが、まさか。
カトリンの想い人がロベルトで合っているか確かめようとシュテファニを振り返るが、彼女はまだ白魚のような指で頬を挟んだまま、心ここにあらずといった様子だった。
「毎朝そのリボンをつけるときに特定の誰かのことを考えて、そして幸せな気持ちになるならきっと同じ」
「それは~、好きってこと?」
カトリンの言葉にシュテファニが一層俯いて、両の手で顔を覆ってしまった。この可愛らしい反応をヴァルターに見せつけてやりたい衝動を必死に抑え、カトリンに頷いてみせる。
「うん、きっとそう」
「じゃあ、クラリッサもだね?」
「へ?」
クラリッサは思わず目を丸くする。シュテファニも静かに顔を上げて、クラリッサとカトリンを交互に見やった。
ゆっくりとカトリンの腕が持ち上がって、クラリッサの首を指さした。鎖骨のあたりに手をやれば、人差し指にコロンと何かが当たる感触だ。
首にかけられたネックレスのトップについた石を指で摘まむ。これは深い紺碧のタンザナイトだ。光に当たると角度によって見える色が少し変わる。
ずっと南にあるタンジーナという国で採れる鉱石だが産出量も貿易量も少なく、希少価値が高い。
「これは……」
咄嗟に違うと言いかけて、口を噤んだ。今朝、鏡越しにこの石を身に着けて満足気に頷いた自分を思い出してしまったのだ。
クラリッサが普段身に着けるドレスも宝石も、全てこのバジレ宮へ来たときにフロレンツが用意したものである。
申し訳ないと思いつつも裸で過ごすわけにはいかず、ドレスはできるだけ質素なものを選んで着ていた……のだが、社交の場に出る予定のない日常でアクセサリーを身に着けたのは今日が初めてだった。
あの出来事を、あの時の気持ちを思い出してしまった以上、もう自分に嘘はつけない。
(私はフロレンツが、好きだ。ずーっと昔から)
誤魔化すことを諦めて頷くと、3人は顔を見合わせてクスクスと笑い合った。くすぐったくて、でも嬉しくて不思議な気分だ。
◇ ◇ ◇
遠くにロベルトの姿を見つけたカトリンが、子犬のように彼を目指して飛び出して行った。恋を自覚したカトリンがこれからどうなるのかクラリッサには全く想像がつかない。
ただ、相手があのロベルトであることが少し心配だ。いや、大いに心配だ。
「わたし、貴女のこと誤解していたみたい」
クラリッサがカトリンの後ろ姿を見つめている横でシュテファニが囁く。ふたり寄り添うように座ったまま、優しい瞳でヴァルターを見つめていた。黒髪がサラサラと風にたなびいてクラリッサの頬を撫でる。
「誤解?」
「ここへ呼ばれたのをいいことに、玉の輿を狙っているのかと。ぼんやりしたヴァルターなら引っ掛かってしまいそうでしょう?」
クラリッサが何か言いかけるのを、シュテファニが手をあげて止めた。
「教師を目指してるんですって? フロレンツから聞いたわ。それにいつもお勉強やダンスに努力するのを見てね、思ってたのと違うというか。頑張る人は応援したいわ」
「ううん、教師は家を立て直すための手段だから大志を持ってるわけじゃなくて。そんなたいした人間じゃないんです」
「家のために己を滅するのは貴族にとって当然のことだけど、わたしも含めて出来る人は多くないわ」
シュテファニの言葉はクラリッサの胸をキュっと掴んで締め付けた。自分のして来たこと、しようとしていることを認めてもらえたような気がしたのだ。
両親は目の前の問題をひとつひとつどうにかするので手一杯で、数年先にアイヒホルンが存続しているかどうかを考える余裕がほとんどない。だからクラリッサがどうにかしなければと背負っていた。
それを、見てもらえたのだと。
「正直言うと、フロレンツと貴女とじゃ家格が釣り合わない。貴女のその想いは残念だけど……。
でも、でもね。応援するわ。教師になったら、貴女と契約すべきだって小さな子を持つ方々に宣伝もする。アイヒホルン家の再興を祈って、わたしにできることは喜んで協力するから、言ってちょうだいね」
まさかシュテファニがそんな風に言ってくれるとは思わず、クラリッサは言葉に詰まった。嬉しくて、泣いてしまいそうで、こみ上げてきた涙を我慢しながらへにゃりと笑う。
「ありがとう、シュテファニ」
「それじゃ、わたしもこうしてはいられないわね。勉強しなくちゃ」
「べんきょう?」
「わたしは一人娘よ。でもヴァルターには絵を描いていてほしいでしょう? それならわたしがローゼンハイム家の仕事を継がなければいけないのではなくて?」
パチっとウインクしたシュテファニに、クラリッサは笑顔で頷いた。
ヴァルターも毎晩図書室で法の勉強をしているのだ、なんて言うのは野暮というものだ。ヴァルターブルーの秘密をバラしてしまったのだから、ひとつくらい、本人からのサプライズも残しておかなければ。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。暗くて狭いところが嫌い。
●カトリン:オスヴァルト伯爵家の長女で末っ子。ふわふもちもち。
●シュテファニ:ローゼンハイム公爵家の一人娘。全貴族の子女の憧れ。
名前だけ登場の人
●ヴァルター:ペステル伯爵家の長男。伯爵位を継ぐつもりはないのんびり屋さん。絵描き。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。無愛想でとっつきにくい。でも例のあの子だったことが発覚。
●ロベルト:エルトマン公爵家の長男。仕事のできるチャライケメン。




