第36話 禍を転じて福と為す④
ペルツ医師の背中を引き留める言葉も思いつかないまま、退室する様子を眺める。
クラリッサはもうこの世の終わりとばかりに頭を抱えた。できることならフロレンツに抱き着いたのは一時的な混乱とか、せん妄状態にあったとか言ってほしいものだ。
もうまともにフロレンツの顔を見られなくなってしまった。せめて、王族に媚を売る浅はかで汚らわしいヤツだと思われませんように。
「おっと、失礼」
扉のほうでペルツ医師が声をあげる。抱えていた頭をあげれば、大きく開かれた扉の前でふたりの男性が向かい合っているのがわかった。
ペルツ医師が半身を引いて場所を開け、廊下側にいた男性を部屋へ通してから出て行く。いや、出て行ってしまった。
「ハンス伯父様」
新たにやって来た男はハンス・グレーデンだ。少し癖のある赤毛は実年齢より若く見せ、往年の美貌はいくらも失われていないように思えた。
「リサ。すまなかった」
「えっ、ちょ」
ベッドのそばまでやって来るなり、ハンスが深く頭を下げる。
クラリッサが大慌てでパタパタと振る両手はハンスには見えていないし、フロレンツは冷ややかな目で彼を眺めているだけだった。
まるでハンスの意図を探っているかのようなその様子が、どことなくアウラー家の庭を走り回る番犬と重なって見える。犬だ、フロレンツは。
「伯父様、やめてください。顔をお上げになって」
「リサが暗く狭い場所が苦手なことはロッテから聞いていたし、なによりあの叫び声ですぐに異変に気づくべきだった。いや、本当なら箱に入るのを拒んだときに気づくのが正しいんだ」
「その通り」
頭を上げて語りかけるハンスの目は悲痛に満ち、心を痛めているのが伝わってくる。
クラリッサにはその言葉だけで十分だったのに、なぜかクラリッサに代わってフロレンツが返事をした。ジロリと睨んだクラリッサの視線には気づかない振りをするつもりらしい。これだから王子様は。
「言い訳をするようだが、奇術師たちは躊躇いなくリサを指名したし、アメリアが終始落ち着いた様子だったせいもあって、リサも承知の上で仕組まれた演出なのかと思ってしまったんだ」
「いえ、どうあれ伯父様に謝っていただくようなことではありませんわ。それにフロレ……殿下が助けてくださったのでもう大丈夫」
クラリッサがフロレンツを仰ぎ見て笑いかけると、ハンスも頷いてフロレンツに向き直った。また深々と頭を下げて謝辞を述べる。
グレーデン家が代々大臣を務める官吏省は、国政にまつわる人事の一切を取り仕切る部門だ。貴族や、ある程度の権力を持つ民から賄賂などを贈られがちな部門でもある。
だからハンスのように生真面目な人物が大臣であるべきだし、クラリッサはその姪であることを誇らしく思っていた。
「とにかく落ち着いた様子で安心したよ。噂が変に伝わってもいけないから、ロッテやボニファーツ君には私からも連絡しておこう。何かあればすぐに言うんだよ、王都では私もアウラー卿と並んで親代わりのつもりなんだからね」
「頼もしいお父様がたくさんいて心強いです」
仕事柄、ハンスには親戚であっても……いや、縁者だからこそ頼りづらい側面がある。何か頼ることでハンスの足を引っ張るような噂話がたってはいけない。
祖父カスパルの事件のときもそうだ。ハンスが縁者であるからこそ、彼はアイヒホルンに肩入れすることができなかったと聞いたことがある。だからアウラー家がクラリッサをバックアップしてくれたのは、本当に幸運なことだ。
そしてハンスもまた、クラリッサに何かあれば出来る限りの力になってくれることだろう。貴族のパワーバランスを崩さない範囲で。
ハンスはクラリッサの頭をポンポンと撫でてから、それじゃあ、と爪先を扉へ向けた。
はい、とお別れの挨拶をしようとしたところ、フロレンツが一歩前に出て彼を呼び止める。
「グレーデン卿。ちょっと」
フロレンツがハンスの耳元で何か一言二言告げ、ふたりは並んで部屋を出て行った。彼らの深刻そうな横顔が大事な話だと告げている。
官吏省と、フロレンツの研究するゲシュヴィスター制度とは特に関わりがないように思えるのだが。
(……ま、私が首を突っ込んでいい話でもないよね)
そんなことよりだ。クラリッサには何を置いても反省すべきことがある。
確かに暗くて狭いところが苦手だ。恐怖心は克服できない。だからといって、あんな公共の場で醜態を晒してしまうとは。そのあげく王子殿下に助けていただくとは。
思い出すだけで頭が痛い。
さらに醜態を晒すキッカケになった先ほどの夢は、現実にあったことだ。あのチェストに隠れた際、何かの拍子に蓋を留める金具がハマってしまって内側から開けられなくなっていた。恐らくクラリッサが暴れたせいだ。
以来、暗いところも狭い密閉空間も苦手なまま。これでフロレンツには二度も助けてもらったことになる。
(――ああ。なんで忘れてたんだろう。助けてくれたあの子はフロレンツだったのに)
「カルラ、私、思い出したかも……」
水を差し出したカルラへ、クラリッサがぽつり呟いた。
あのかくれんぼで、チェストからクラリッサを助け出したのはあの子であり、フロレンツだったのだ。
ずっと傍にいたからだろうか。ドレスやキルトに移ったフロレンツの香りがクラリッサを包んでいた。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。暗くて狭いところが嫌い。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。無愛想で忙しそうでとっつきにくい。
●ファビアン・ペルツ:王家お抱えのお医者様。たぶんもう出て来ない。
●ハンス:グレーデン伯爵。クラリッサの伯父。官吏省の大臣。
●カルラ:バジレ宮におけるクラリッサの侍女。以前はアイヒホルン家で働いていた。
名前だけ登場の人
●アメリア:ギーアスター伯爵家の長女。縦ロールちゃん。意地悪。
●ロッテ:クラリッサの母でハンスの妹。
●ボニファーツ:クラリッサの父。アイヒホルン男爵家当主。
今回登場用語基礎知識
●官吏省:国政にまつわる人事のほとんどを担う部門。代々グレーデン家が大臣を務める。
●ゲシュヴィスター制度:兄弟姉妹制度。5~10歳の同年代の貴族の子が集まり基礎教育を受ける。元は王族の情操教育が目的。




