第35話 禍を転じて福と為す③
バジレ宮の中を必死で走るふたつの小さな影。幼いクラリッサの手を握って共に走るのは、ダークブラウンの髪を頭の上方でふたつに結んだ女の子、アメリアだ。
「どこにいくの、アメリア?」
「上のフロアよ。とっておきのかくればしょを見つけたの」
(そうだ、みんなでかくれんぼをしていたんだっけ)
クラリッサは自分の置かれた状況を思い出した。鬼役はフロレンツで、彼が数をかぞえ始めた次の瞬間には、他のみんなはもう姿を消していた。
取り残されたクラリッサの手を取って走り出したのがアメリアだ。
アメリアが案内した場所は、薄暗い物置のような小さな部屋だった。並べられたもののほとんどに埃よけの白い布が掛けられていて、ちらりと覗いた中身は子どもの目にも上等だとわかるものばかり。
「わたくしはあっちのかげに隠れるから、クラリッサはここ」
アメリアがクラリッサを手招きする。そこには大きなチェストがあり、すでに蓋も開けられていた。
「アメリアはいっしょに入らないの?」
「ここが見つかったときふたりともつかまるじゃない。わたくしが鬼の目をそらしてあげる」
チェストへ入ったクラリッサに、アメリアがにこりと笑いかける。ふたりで頷き合って、そして蓋が閉まった。
蓋の閉じられたチェストの中は真っ暗闇で何も見えない。クラリッサが思わずアメリアの名を呼ぶ。
「アメリア、暗いわ」
その耳に飛び込んできたのは、カチャカチャという金属音だった。
「ねぇアメリ――」
「フロレンツと……パパに……」
アメリアの呟く言葉は小さくて、クラリッサにはいまいち聞き取れない。
「なんて言ったの、ここから出して!」
叫んでももう自分の声しか聞こえず、静寂と闇だけがクラリッサを包んだ。暗闇が恐ろしくてチェストから出ようと試みるも、蓋はびくとも動かない。
少しずつ恐怖が色濃くなって、必死になって蓋を叩く。その弾みでチェストの中に入っていた他の……恐らく古着だとかのいろいろが足元でぐちゃぐちゃになった。
チェストにはひび割れした箇所があったらしい。中身が崩れたことで、どこかから光が差し込んでクラリッサに一瞬の安堵をもたらす。
ほっと息を吐いて、光が入ってくる場所を探した。向こう側が見えるかもしれないし、声が誰かに届くかもしれない。
「きゃーーーーーーーーーーーーーー!」
視線を彷徨わせたクラリッサは、生気の無い瞳と目が合った。
チェストの中には古い人形もまた仕舞ってあったらしい。光を受けたガラスの瞳は、ただ無表情にクラリッサを見つめていた。それはまるで生きているみたいで、息遣いすら聞こえてくるかのように感じられるのに、瞳に感情はない。
あまりの恐怖に吐き気さえ感じ始めたとき、チェストの外で物音がした。
ハッとして、もっと恐ろしい何かに居場所が見つかってしまったのではないかと息をひそめる。が、泣きすぎてしゃくりあげる喉を抑えることはできない。
ヒッ、ヒッ、という声とも音ともつかないそれをどうにかしたくて、首と口に手を当てる。止まってほしい、息を止めたい、と祈りながら。
「リサ!? ここにいるのっ!?」
優しくて、でも少し焦った様子の声が聞こえ、次いでガチャガチャと乱暴に金属をいじる音がチェストの中に響いた。
クラリッサは冷たい瞳が動かないように必死に息を詰めて見張りながら、蓋が開くのを待つ。早く、早く。フロレンツ、早く。助けて。
蓋が開いて闇が取り払われると同時に、クラリッサはフロレンツの名を何度も何度も呼びながらその温かな胸に飛び込んだ。
「フロレンツ! フロレンツ!」
「大丈夫、大丈夫だから。落ち着いて、リサ」
温かくて大きな手がクラリッサの背中をゆっくりと優しく撫でる。体を包み込む温もりに身を任せるうちに恐怖はどこかへ霧散して、震えていた肩も落ち着きを取り戻した。
そうしてクラリッサがやっと瞼を持ち上げたとき、最初に目に入ったのは体に掛けられたふわふわの羽毛のキルトだ。これはクラリッサが日常的に使用する寝具に間違いなく、ベッドで眠っていたらしいと理解した。
(夢、か……。よかった)
嫌な夢だ。古い古い思い出で、小さな頃は毎晩のように同じ夢にうなされていた。まさか今になってまたこれを見るとは。
背中をまた温かな手がゆっくり上下して、クラリッサは顔を上げる。そこには部屋の明かりを受けてキラキラ光るプラチナブロンドがあった。
「わっっ! え……っと、フロレ――すみません、私!」
「いや、俺のことはいい。うなされていたようだが」
慌てて身体を離してペコリと頭を下げる。フロレンツはベッドに腰掛けて、安心させようとずっと背中を撫で続けていたらしい。
一国の王子殿下に一体なにをさせているのだろうと血が引いていくようだ。
「いえ、もう大丈夫です」
心配そうな表情にクラリッサがどうにか微笑んで見せた時、部屋にノックの音が響いた。部屋の主より先にフロレンツが返事をして、すぐに扉が開く。入って来たのはカルラと眼鏡をかけた初老の男だった。
「医師のファビアン・ペルツです」
「頼む」
荷物を片手にやってきたペルツ医師にフロレンツが頷く。
カルラがベッド脇まで運んだ椅子にペルツ医師が座り、クラリッサの脈をとったり目や口を覗き込んだりとテキパキ診察を進めた。
その間もフロレンツはクラリッサの横に座したままで、医師が少々やりづらそうだ。
クラリッサが不思議に思って首を傾げたとき、視界の中で自分の手がフロレンツの左手を握っているのが見えた。ずっと握りっぱなしだったのだ。クラリッサは慌てて手を離し、血の集まった顔を少しでも隠したくて両手で頬を包みこんだ。
「あっわっ! ご、ごめんなさい、私!」
「気づいてくれて助かる。一生このままなら日常生活に障るところだった」
立ち上がったフロレンツは、今までに見た中で最も優しく微笑んでいた。
(どどどどどどうしよう! 私、もしかしなくてもとてつもなく恥ずかしいことをしていたのでは!?)
そもそもよく考えたら、さっきまで悪夢にうなされたとはいえフロレンツに抱き着いていたのだ。
落ち着きを取り戻すと同時に、より一層落ち着かなくなってしまった。こういう場合どうしたらいいのか、マナーの教師は一度だって教えてくれたことはない。
「混乱もないようですし、一先ずは問題ないでしょう。今日、明日はゆっくりなさるがよろしい」
医師が立ち上がってフロレンツに一礼すると、ドアへ向かって歩き出した。
クラリッサは、あれは絶対やぶ医者だと確信する。なぜなら、たった今、クラリッサは人生でいちばん混乱しているのだから。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。暗いところ狭いところが嫌い。
●アメリア:ギーアスター伯爵家の長女。縦ロールちゃん。意地悪。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。無愛想で忙しそうでとっつきにくい。
●ファビアン:王家お抱えのお医者様。たぶんもう出て来ない。
●カルラ:バジレ宮におけるクラリッサの侍女。以前はアイヒホルン家で働いていた。




