第30話 氷の解け始める兆し⑤
ふかふかのソファーにポヨポヨと身体を弄ばれながら、クラリッサは思考を止めていた。
(また『リサ』って……)
愛称である「リサ」という呼び方をするのは、例えば両親や伯父といったごくごく親しい人物に限られている。
ビアンカでさえ、彼女がどうしても甘えたいときにしかそう呼ばないのだ。それはもちろん、クラリッサ自身がそう呼ばれるのを嫌がったからなのだが、なぜか、というのが思い出せない。
理由は思いだせないまま、今も家族以外からそう呼ばれることに抵抗感がある、いや、あった。
クラリッサが戸惑っているのは、フロレンツから「リサ」と呼ばれることに嫌悪感も抵抗感も何もない、ということだ。驚きはするけれども。
どちらにせよ、王族に対してそう呼ばないでくれとは言えないのだから、嫌な気分にならないのなら歓迎すべきなのだろう。ただ、抵抗感を持たないことに心のどこかで罪悪感がある。
「いいえ。予定もないですし……、ないです」
クラリッサには、外に出て何かをするような金銭的な余裕がない。もしもの時に備えていくらかの用意はあるが、遊びに出かけるためのものではないのだ。
とはいえそれをわざわざフロレンツに伝える意味もない。質問にだけ答えて、そわそわしながら次の言葉を待った。
「そうか。当面、外出は控えるように。もし社交の招待やその他出かける用事ができたら必ず報告を」
「え? もしかして、エスコートしてくださるんですか? なーんて――」
「そうだ」
すぐに「ごめんなさい」を言う準備すらあったというのに、冗談のつもりで口走ったエスコートを肯定され、二の句が継げない。
大体、フロレンツは先日の美術品鑑賞会のときから様子がおかしい。
クラリッサにとってフロレンツは俺様で無表情で冷淡な人物というイメージが固定化されているのだ。一体全体何があったんだろうか。悪いものでも食べたのか。
「えっと、それはフロレンツのファンに叱られちゃうからダメです」
今度こそ心地いいソファーから腰を上げてドアへ向かって歩き出すクラリッサの背中を、「とにかく報告しろ」という声が追いかけて来た。
外出する予定もなければ招待を受ける予定もないのだし、気にすることでもない。
クラリッサは適当に返事をしながら、部屋の隅にいる従者へ目配せをする。従者はフロレンツを気にしつつもクラリッサのために扉を開けた。
(あれ? この香りって)
部屋から一歩外へ出たところで足を止める。
まるでその場から立ち上るような、濃い香りが辺りを漂っていた。珍しいマリーゴールドの香水だ。ジャスミンと合わせて抽出された甘く妖艶な香りはアメリアのもので間違いない。
いつだったかのお茶会で、カトリンとアメリアがこの話題で盛り上がっていたのをクラリッサはよく覚えている。
「アメリア……?」
まるで今の今までここにいたような香り方をしている。きょろきょろと周囲を探してみたがアメリアの姿はない。
ちょうどこの部屋の前を通り過ぎたと考えるのが普通なのだろうけれどと首を傾げつつ、その場を離れることにした。
フロレンツの部屋にはそんなに長い時間いたわけではないが、宮の中はもうずいぶん静かになっている。
自分の時間が増えたことで読書も楽しめるようになったクラリッサは、図書室へ立ち寄って本を借りようかと考えた。
この時間なら図書室にはヴァルターがいるかもしれない。彼は勉強熱心でほとんど毎晩のように籠っているのだから。
ほんのちょっと立ち寄るだけならシュテファニを怒らせることもないだろう。シュテファニは彼のことが好きなのだと思い至ってから、怒らせることが目に見えて減った。
気をつけるポイントがわかれば、恋する乙女の攻略はそう難しくないのだ。
「ん?」
どこからかガチャガチャと耳障りな音が響く。
クラリッサはふいに、先日フロレンツが言っていたネズミの話を思い出して肩を抱いた。
(まさか、ね?)
誰か侍従を呼ぶべきかと悩んで、やめた。侍従にだって自分の時間を楽しむ権利があるし、夜の見回りが今どこにいるのかわからない。たいしたことじゃなかったら申し訳ないし、まずは音の出処を探すのが先だ。
何か金属がぶつかるような、または陶器が転がるような音が断続的に聞こえてくる。
争っているような激しさはなく、クラリッサが一歩進む毎にその音はクリアに大きくなった。そのうちに、薄暗い廊下に明かりが漏れているのに気づいた。
この先は食堂だ。
「……え。何してるの?」
「見ておわかりになりませんか。茶を淹れているのですが」
「うん、さっぱりわかりませんね」
ヨハンがじろりとクラリッサを睨む。どうやら自分の行いが失敗続きであるという自覚はあるらしい。
広い食堂の隅で茶葉がバラバラと散らばっている。すでに乾燥しているコレをまださらに乾かすつもりではあるまいと、小さく溜め息を吐いた。
ポットは無残に転がっているし、銀のケトルはなぜかテーブルの真ん中に置いてある。クラリッサにはわざとやってるようにしか見えないのだが、当の本人は真面目な顔だ。
「熟考したいことがあって従者を部屋から閉め出したのですが、朝から何も飲まず食わずだったことに先ほど思い至りまして」
「もう夜です」
「ええ、夜です」
ひとまず、床に落ちたものは諦めてテーブル上に散らばった高価な茶葉をかき集めつつ、テーブルからケトルを取り上げてお湯を沸かした。
「誰か呼べばよかったのに」
「夜だと言ったのは貴女でしょう。こんな時間に呼び出したら気の毒です」
「……ふ、あはは」
従者に気を遣って、従者の仕事を増やしていたら世話がない。だがそうした心遣いがヨハンらしい、とクラリッサは笑う。
思えばクラリッサが初めてバジレ宮に来た日にも、最初に声をかけてくれたのはヨハンだった。
「手際がいいですね」
「もう慣れたものです」
没落寸前の田舎者は自分のことくらい自分でできなければいけなかった。掃除も着替えも、お茶を淹れることも。
クラリッサの言葉の意味を正しく理解したのか、ヨハンはそれ以上何も言わなかった。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。教師を目指しつつ教師レポート作成中。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。ゲシュヴィスター制度の研究をしている。
●ヨハン:ハーパー伯爵家の次男。本の虫。
名前だけ登場の人
●アメリア:ギーアスター伯爵家長女。フロレンツ大好き。クラリッサは嫌い。
●ビアンカ:クラリッサの幼馴染。アウラー伯爵家長女。乙女脳。
●カトリン:オスヴァルト伯爵家末娘。もちもち。
●ヴァルター:ペステル伯爵家の長男。絵描き。
●シュテファニ:ローゼンハイム公爵家の一人娘。全貴族の憧れ。




