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第29話 氷の解け始める兆し④


 フロレンツから教師に関するレポートを提出するように言われてから、そろそろ一週間が経とうとしていた。


 授業の回数や時間を減らしてもらえたおかげで、クラリッサは自分の時間を持つこともレポートに頭を悩ませる時間を持つこともできるようになっている。もうすぐ一名分のレポートも完成間近だ。


 しばらく机に向かっていたクラリッサは、目途のたったレポートを眺めて満足気に頷いた。


 これを書き終えたら、一度フロレンツに見て貰うのがいいだろう。観察が不足していないか、観点が独りよがりになっていないかなど、依頼主の意見も聞かなければならない。


 少し休憩をしようかとペンを置くと、机の端にある淡緑色の小包が目に入った。先ほどカルラが持って来たもので、ビアンカから送られたものだ。


 手紙というには大きなサイズの包みを手に取って開封する。

 中に入っていたのはクラリッサ宛ての封書と、角ばった文字でフロレンツ宛てであると大きく書かれた小包だった。これをクラリッサを通してフロレンツに届けるのが目的なのだろう。

 それなら早く配達して差し上げるべきだ。


 クラリッサが机上のベルをリリリと鳴らせば、ほとんど間を置かずにカルラが顔を出した。


「フロレンツは今日いつ頃お戻りになるのかな?」


「ええと……夕方ですね。午前中はエレアリナ孤児院、午後は会議が二つ。お食事は本城で召し上がるご予定になっていますよ」


 カルラがエプロンのポケットから臙脂色の手帳を取り出して読み上げる。


 フロレンツは定期的に孤児院を訪れて子どもたちと遊び、いくらかの寄付を置いていくのだと言う。

 どんな顔をして子どもと接しているのかは気になるところだ。まさかあの仏頂面のままということはないだろう。


「そう。戻ったら少しお時間もらえるように手配してくれる?」


「かしこまりました」


「おめかしはしないからね?」


「まぁ」


「『まぁ』じゃないから」


 クラリッサがじっとりした目でカルラを睨みつけると、有能な侍女はクスクスと笑いながら部屋を出て行った。


 最近のカルラは事あるごとにクラリッサを飾り立てるようになってしまったので、その度に生産性のない攻防が繰り広げられているのだ。

 まぁ、可愛くしたいと思ってもらえるのは喜ぶべきことなのだろうけれども。


 フロレンツが戻ってくるまでにレポートを仕上げてしまわなければいけない。机に向き直ったクラリッサは、ペンではなく淡緑色の封書を手に取った。

 先にビアンカの手紙を読んだほうが、きっと素敵な気分転換ができるはずだ。




 ◇ ◇ ◇




「まず、バシュ先生のレポートを。過不足などがあれば教えてください。それから、ホルガー様からフロレンツ宛に」


 クラリッサがこのバジレ宮に来て、最初にフロレンツが指名した3名の教師のうちのひとりが、語学を担当するこのヨルダン・バシュ先生だ。ウィットに富んだジョークを交えて面白おかしく講義を進めていくのが特徴である。


 フロレンツは小包を脇に置いて、レポートをじっくりと読み始めた。クラリッサは緊張のせいか、ほんのりと手に汗が滲むのを感じる。

 この緊張はレポート確認してもらっているからだけではない。クラリッサはフロレンツの部屋に初めてお邪魔しているのだ。


(なんか、色っぽい、ような)


 殿方の私室に入るなど人生でも初めてのことだというのに、いつもと違ってリラックスした様子のフロレンツはほんのり憂いを帯びていて、それが色気を醸し出しているような……気がしたところで、クラリッサは考えるのをやめた。


 いつもと違う状況は人の思考を狂わせるものだ。クラリッサは頭をプルプル振ってレポートに集中する。

 

「生徒に知識不足を指摘される教師は笑えないな」


「あ……いえ、でも本質的な部分ではありませんから」


 ヨルダン・バシュは隣国グラセアの公用語を担当しているのだが、グラセアの文化や歴史には深い興味を持っていない。


 言葉を学ぶ上で、それらの知識があるのとないのとでは理解に差が出るとクラリッサは考えている。ただ、知らなければ学べないというものではないし、大きな問題ではない。


 笑えないと言うフロレンツもその辺りは理解しているらしい。苦笑して頷いた。


「内容としては十分だ。他の教師についても頼む」


「……ッ! はい!」


 一度で合格を貰えるとは思っていなかったため、ついつい小脇に拳を握ってしまった。淑女のしていいポーズではないが今なら許されるはずだ。


 クラリッサは最近、表情の変化が乏しいフロレンツが、しかしその言葉はいつも誠実なのだと気付いた。だからこそ、こうして認めてもらえることはとても嬉しくて、誇らしい気持ちになる。


 クラリッサが喜んでニコニコする一方で、フロレンツは小さく息を吐いて水を口にする。

 その表情は憂いを帯びているというよりもむしろ疲労なのではないかと気づいて、フロレンツの顔を覗き込んだ。



「なんだか、疲れてますか?」


「いや、まあ、そうだな。今日は面倒な会談をふたつばかりこなして来たんだ」


「制度の研究のために?」


 クラリッサの問いに、フロレンツが首肯する。


 世間は彼とこのバジレ宮についてあまり良くは言わないし、クラリッサも以前はフロレンツに対して世間一般と同じような印象を抱いていた。奔放で自己中心的で偉そうで、と。だけど――。


「噂なんて本当にアテになりませんね。フロレンツはこんなに真面目で、仕事熱心ですもの」


 小さく口を開けて呆けた顔でクラリッサを凝視するフロレンツは、確かに疲れている。この状態ではいつまでも拘束しては可哀想だと立ち上がった。


「じゃあ、私はそろそろ――」


「リサ、直近で外出の予定はあるか?」


 上げかけた腰を、フロレンツの言葉でもう一度ソファーにおろした。クラリッサの体がポヨンと跳ねる。



今回登場人物紹介

●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。教師レポートを作成するために奮闘中。

●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。ゲシュヴィスター制度の研究をしている。

●カルラ:バジレ宮におけるクラリッサの侍女。以前はアイヒホルン家で働いていた。


※名前だけ登場の人

●ビアンカ:クラリッサの幼馴染。アウラー伯爵家の長女。フロレンツファン。

●ホルガー:アウラー家当主。武官省大臣。

●ヨルダン:クラリッサの語学教師。グラセア語担当。

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― 新着の感想 ―
[良い点] >クラリッサは考えるのをやめた。 カ○ズ様! ……とか思って書きに来ようとすると、ことごとくまさきさんが先に書いているという。 なんか悔しいw
[一言] >気がしたところで、クラリッサは考えるのをやめた。 カ○ズ様!!!
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