第27話 氷の解け始める兆し②
「では私は……」
そっと会釈してその場を華麗に立ち去ろうとしたクラリッサを、フロレンツが右手を上げて制止した。
(んもう! ここにいたらアメリアが怖いんですってば。……わからんかー)
クラリッサは溜め息をギリギリのところで我慢して、フロレンツの一歩後ろで控えることにした。
おじさま達がフロレンツに挨拶するのを、死んだ魚のような目で見つめる。彼らの目にクラリッサはほとんど映っていないのが、ある意味では気楽だが。
「いやー、この離れに若者をお集めになったのが、殿下の花嫁探しだなどと噂がたちましたがね。どうもそんなことはないようですな」
グンターが唇の端を上げながらクラリッサを嘗め回すように見て言う。
父娘揃って嫌味スキルが高いものだと感心しつつ、視線を遠くにやった。こういうとき、心はどこか別の場所へ置いておいたほうが平和だと知っている。
「全くの見当違いだ」
フロレンツは表情にも言葉にも愛想がない。国政を担う有力貴族への応対としては不相応な、棘のある空気だ。
「わはは! そうでしたか、それは失礼」
「文部省にもゲシュヴィスターの研究だと申請しておいたはずだが?」
「ええ、もちろんですとも」
クラリッサはグンターに苦手意識があるせいもあってか、媚を売るような、しかしどこか相手を見下しているような声音に背中がぞわぞわと粟立つ。
心を遠くに飛ばす方法は失敗に終わり、つい聞き耳を立ててしまう。手元のケーキに意識を集中させる方法に作戦を変更し、気を紛らわせることにした。甘酸っぱいイチゴのソースがクラリッサを幸せにしてくれるはずだ。
「文部省で用意できる資料で必要なものがあれば、娘に言い付けてください。あとで融通しますよ」
フロレンツが小さく溜め息を吐く。クラリッサもまた、グンターの言葉に「いや駄目でしょう」と心で突っ込み、ケーキを自分の口に突っ込んだ。
省内で保管すべき資料を第三者が持ち出すときには申請が必要だ。融通をきかせていいことではない。
にっこり笑うギーアスター父娘にとっては、王子殿下に取り入るための方便なのだろう。
グンターの横に立つベンノは、うっすらとした笑いを顔に貼り付けたまま静かに控えている。クラリッサはそれもまた腹の底が見えない感じがして不安になった。
「それより。バジレの庭にここのところよくネズミが出るようなんだが」
「おや、それはお困りでしょう。ネズミ捕りの設置数を増やすよう手配いたしましょうか。財務省の管轄でしょう?」
グンターがニコニコ顔のままベンノを仰ぐ。
「いや、たった今その必要はなくなったはずだ」
「……そうですか、それは良かった」
(ん。んん??)
すっと目を細めたグンターに不穏な空気が滲むが、クラリッサはこの空気の変化に追いつけない。この会話は一体何を意味しているのか。
フロレンツの陰からグンターの表情を観察してみたが、グンターはさっと元の柔和な笑顔を貼り付けてしまった。
「では、私たちはこれで。アメリア、しっかり殿下をお支えするように」
「はい、お父様」
「……せいぜいよろしく」
「わ、ちょ」
グンターの言葉にアメリアが微笑むと、フロレンツは溜め息を吐いてクラリッサの腕をとった。
移動するらしい空気を感じて、クラリッサは慌てて空いた皿を近くの給仕に渡す。結局アメリアたちの目の前を横切ることとなり、目立たないようにしていたクラリッサの努力は水の泡だ。
クラリッサの手を引いたまま大股で歩を進めたフロレンツは、エントランスホールの端に到着するとベンチを指し示した。
「ここで少し休むといい」
「あ、ありがとうございます」
どうやら休憩させてくれるらしい、と素直に座る。ふかふかのベンチが気疲れしたクラリッサを優しく受け止め、自然と吐息が漏れる。
ふわふわの座面が沈んで、クラリッサの身体が左側に傾いた。隣に腰をおろしたフロレンツがワインの注がれたグラスを差し出し、クラリッサは会釈しながら受け取った。
(この優しさが怖いんだけど……?)
フロレンツと言えば、もっと高圧的で俺様で周囲の人間など顧みない人物ではなかっただろうか。
これが外面というやつだろうか? いや、外面を取り繕っているなら彼の評判が悪いはずもないのだが。もうサッパリわからない。
近くにきた横顔があまりに綺麗で、クラリッサはフロレンツの方を見ることができない。
恥ずかしいし、それに少し悔しい。女性より長い睫毛は反則だ。
クラリッサは、またいつもの無言の空間になりそうな予感がして慌てて口を開いた。ちょうどいい話題もあるのだ。先ほどのグンターとの会話で、どうしても気になることが。
たぶん、聞いてはいけない類の話題なのだろうけど。
「あの、殿下」
「なんだ」
「先ほど仰っていた、ネズミとは」
「ああ……。いや、お前は知らなくていいことだ」
(ですよねー!)
やっぱり聞いてはいけなかったらしい。
クラリッサはグラスを口に運んでその場の空気が変わるのを祈った。別の話題を探すのが無難かもしれないが、これだというものは思いつかない。
「……ひとつだけ言えるのは、お前の生活は何者にも脅かされない、ということだ」
「え、それってどういう――」
思いがけず追加で得られた情報は、さらにクラリッサを混乱させる。
キラキラと輝く貴族の世界の裏側には、とても濃い闇もまた存在している。それくらいはクラリッサも知識として知ってはいたが、フロレンツの言葉ではまるでその闇がクラリッサに迫っていたみたいに聞こえるではないか。
嘘でしょう? と見上げた先の王子の瞳は鋭かった。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。フロレンツのスパルタでお嬢様レベル上昇中。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。ゲシュヴィスター制度の研究と称して何やら画策している。
●アメリア:フロレンツ大好きお嬢さん。ギーアスター伯爵家令嬢。縦ロールがチャームポイント。
●グンター:ギーアスター伯爵家当主。アメリアの父。文部省大臣。
●ベンノ:ハーパー伯爵家当主。ヨハンの父。財務省大臣。
今回登場用語基礎知識
●ゲシュヴィスター制度:5~10歳の同年代の貴族の子が集まって基礎教育を受ける。元は王族の情操教育が目的であった。
●文部省:現在はグンターが大臣。国内の教育、倫理を司る。また、外交も担当。
●財務省:国家財政および地方行政の監督。現在はベンノ家が大臣。




