第24話 靄のかかる未来⑤
案内されたのは、先ほどまでクラリッサが勉強していた小サロンだった。
ソファーなどの位置は少々変わっているようだ。中央に食事スペースとして大きめのテーブルセットが据えられている。
フロレンツは既に席で待っていた。彼も先ほどとは装いが違うような気がするのだが、先ほどまでの衣装を覚えていないクラリッサにはそれを話題にすることができない。不覚である。
ひとりで摂る簡素な食事とは違う、甲斐甲斐しい給仕付きのエレガントな時間が始まる。クラリッサにとってはエレガントすぎて胃が痛いくらいだ。
(あれ、もしかしてこれ「教養」の学習成果の確認だったりしないよね?)
先日は突然ダンスのテストをし始めたフロレンツのことだ。ないとは言い切れない。クラリッサは胃痛に加えて胸やけも感じ始めた。
無言のまま食前酒をいただき、オードブルを口に運ぶ。予想通りとても静かな空間だ。
場を和ませるような気の利いた会話を求められているなら、クラリッサはこのテストを合格しなくていいと思った。この王子様を納得させられるような話術など持ち合わせていないのだから。
チラリと様子を伺えば、何を考えているのかわからない無表情が静かに口をモグモグさせていた。
深い紺碧色の瞳がとても綺麗で、見とれるうちに思わず手が止まってしまう。その紺碧がコロリと動いて、ばちばちと目が合った。
「ひゃっ」
「なんだ」
「いえ……」
クラリッサの特技、曖昧笑顔の発動である。
表情を崩すことなく手元に視線を戻したフロレンツが、やっとポツリと言葉をこぼしました。
「突然すまなかった。が、約束を果たせてよかった」
「約束……」
バジレ宮へ来てから10日と少しの記憶をひっくり返してフロレンツとの会話履歴を洗いだす。彼とお喋りをする機会は多くないのだからすぐに思い出せるはずだ。
(約束? 私、フロレンツとどんな約束した?)
どれだけ振り返っても、「近々食事でもご一緒に」「ええ是非」という類の会話はない。そもそもこの王子様は喋らないのだ。気の利いた食事の誘いなどあるはずもない。
強いて言えばあのダンスの夜、迎えに来た従者に「食事はまた今度」と言ったくらいのものだ。と思い至って、クラリッサは急に可笑しくなって笑いだす。
「く、ふふふ……」
「何がおかしい」
「もしかして、この間ダンスのチェックをしてくださったときのことですか?」
「ああ」
当たり前だろう、とでも言いたげな顔がクラリッサを見返した。ただの社交辞令、いや、その場を辞する挨拶程度にしか思っていなかった言葉が、フロレンツにとっては実行するべき約束のつもりだったのだ。
コミュニケーションに難があると言っても限度があるだろうと思う一方で、反故にしてもなんの問題も起こらないクラリッサとの約束を律儀に守ろうとした姿勢が嬉しかった。
「へへ、ありがとうございます」
クラリッサは自分でも締まりがないと自覚できるくらいふにゃっとした顔で笑った。嬉しいのだから仕方ない。
尊重してもらえるという体験は、クラリッサにはほとんどない。アイヒホルンと積極的に関わろうとする貴族はほとんどいないのだ。婚約者のアルノーでさえ、クラリッサ自身を見てはいなかった。
そのふにゃふにゃ笑顔が令嬢としてあるまじき締まりの無さだったのか、フロレンツはスッと視線を逸らした。
「ところで……お前に教師をたくさんつけている件だが」
「へっ、あ、はい!」
突然提起された真面目なトーンの真面目な話に、クラリッサは慌てて背筋を伸ばす。ただでさえフロレンツは表情が変わらないのに、この温度差は心の準備が間に合わなすぎる。
しかしやっと、クラリッサに休む暇を与えないほど詰め込まれた授業の理由が解き明かされるかもしれない。ごくりと喉を鳴らしてフロレンツの言葉を待った。
「ちょっと頼みたいことがある。いまお前についている教師たちは、王国に登録された中でも優秀だと言われている者たちだ」
「はい」
「教師に関する評価レポートを依頼したい」
「ひょ、評価!?」
クラリッサは予想外の方向に走り出した話に、思わず声が大きくなる。国内でも優秀だと言われる教師を評価とは穏やかではない。しかもそれを、高度な教育を受けているわけではないクラリッサに依頼するとは。
が、フロレンツは眉ひとつ動かさずに頷いた。
「カスパル卿が昔提出した改善申請に目を通して来た。改善案は取り掛かりやすいものだけに限定していたが、……現制度の綻びについてはしっかりまとめてあった。その中で教師の質について触れてある」
「質? それはもしかして、思想だとかそういうことですか」
「そうだな、それもある。が、これ以上何か言って先入観を与えれば、教師を観察する視野が狭くなるだろう。そうではなく、俺が求めるのは現状の把握。些細なことも含めて全て教えてほしい」
瞳を閉じてフロレンツの言葉を一語一語理解していく。評価すべきポイントもクラリッサに任せるというのであればずいぶんと骨が折れる作業になる。
しかし、独学だったからこそ見えるものがあるかもしれないし、それに――。
「私、実は教師を目指そうかと考えていたのです。だから、ええ、謹んでお受けいたしますね。後学のためにも」
クラリッサの言葉にフロレンツが珍しく目を瞠って動きを止める。クラリッサは、そんなにおかしなことを言ったかしらと首を傾げた。
だがもし彼がクラリッサのことを独身貴族男性に媚びる浅ましい人間だと思っていたなら、確かに意外かもしれない。とても不名誉なことだが。
「それは、お前の夢か?」
「いえ。んー、たぶん違います。家を、アイヒホルンを立て直すために自分ができることを考えていたら、教師という選択肢を得たので」
夢だなんて御大層なものではない。家にとっての最善を選ぼうとしたらそうなるだけであって、そこにクラリッサの希望はないのだから。
それでもアルノーとの結婚と比べればずっと素晴らしい将来になるだろう、そう思ってクラリッサは苦笑した。
まだ感情の読めない目でこちらを見つめるフロレンツに、それに、と付け加える。
「お祖父様の遺志に通じる部分もありますから、悪くない考えだと思うのです」
「そうか」
頷いたフロレンツは、あのダンスの夜のように柔らかな微笑みを湛えていた。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。教師になる目標を見つけた。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。無表情で偉そう。人の予定を聞かない悪い癖がある。
名前だけ登場の人
●アルノー:バルシュミーデ子爵。42歳。クラリッサの元婚約者。
●カスパル:クラリッサの祖父。故人。




