第22話 靄のかかる未来③
クラリッサは歴史の教師をエントランスで見送ったあと、先ほどまで授業に使っていた小サロンへと戻った。
テーブルに散らばったメモをため息交じりに見下ろしつつ、ぐでぐでと脱力して椅子へ腰をおろす。
カルラに「王城に働き口はないか」と問い合わせたのはほんの数日前のことだ。
有能な侍女はバジレ宮を取り仕切る執事を通じて求人情報を確認し、それを耳にしたフロレンツがあろうことかクラリッサにつける教師を増やした。
先ほどの教師はクラリッサに新たな知見を与えるために遣わされた刺客というわけだ。
これで、ダンスに教養に外国語3つに加えて歴史だ。王族もかくやという勉強量ではなかろうか。
確かにクラリッサは貴族としてあるべきいろいろなものが不足している。ちゃんとした教師から学んだのは、ビアンカと一緒に受けた幼少期の基礎教育くらいのものなのだ。
自宅の蔵書で自己流に学んだりもしたが、一流の教育を施されたフロレンツから見れば、何もかも未熟なのは否めない。
ただ、フロレンツの目的がいまいち見えてこないことがクラリッサをモヤモヤさせていた。
何のために勉強漬けにしているのだろうか。そういえばバジレ宮へ招待した理由も、結局教えてもらえず仕舞いだ。
(まさか、秘密主義がかっこいいとか思ってたり……? それはそれで目的がわからないけど。どこに向かってるんだか)
ずっと独学だったクラリッサにとって、新たな知識を得ること自体は大歓迎だ。しっかりした教師から教わることができるなど夢のようではないか。
問題は。そう、問題は、王城での職は斡旋しないと断言されてしまったことだ。フロレンツから執事へ、執事からカルラへと伝言されたそれは、最後に「五名家のお嬢様がメイドだなんて前代未聞です」というお小言まで追加されて戻ってきた。
――それこそ、家庭教師はいかがですか。
カルラの言葉がクラリッサの脳裏をよぎる。
このウタビア王国において、貴族の子女の教育ははゲシュヴィスター制度によるものが主流だ。ゲシュヴィスターのホストとなる貴族は、国に登録された教師の中からそれを選ぶ。
どの教師と契約できるかが貴族のステータスになることもあり、良い教師は引っ張りだこになって地位も名誉も約束されるという。
過去には五名家からも何名か教師となった人物がいるし、素晴らしい教師には一代限りとはいえ、爵位が与えられることもある。
(わりと、名案なのでは?)
王家が契約するような良い教師から学びを得ることができるのだ。この機会を利用しない手はないだろう。
「よーし! やる気出てきたぞー」
室内に誰もいないのをいいことに、大きな声で自分を叱咤する。五名家の名に恥じず、かつアイヒホルンを支えることができる仕事だ。今のクラリッサにとってこれほど適した職業もない。
そうとなったら、早速行動あるのみ。まずは、たった今予習を命じられた歴史の本を探しに行かなければ。
ついにバジレ宮での生活に明確な目的と目標ができたクラリッサは、軽快なスキップで図書室へ向かった。
◇ ◇ ◇
図書室へ向かう途中の廊下には、音が響かないよう臙脂色の絨毯が敷かれている。おかげでクラリッサの感情に任せた足運びの音は彼らの耳に入らずに済んだ。
クラリッサは、人の目を避けるような雰囲気のボソボソとした話し声に気づいて足を止める。
「こないだ、行政府の資料室にいたって聞いたよー」
「そうか」
「ね、バジレ宮に俺らを集めたホントの理由ってなに?」
ロベルトとフロレンツの声だ。クラリッサは慌てて柱の陰に隠れた。
バジレ宮へゲシュヴィスターを集めた理由、それはクラリッサもずっと聞きたかったことだ。
ふたりの話を邪魔してしまわないようにと自分に言い訳をして、彼らが立ち去るのを待つことにする。
そう、断じて盗み聞きなどではないのだ。断じて。
ロベルトの問いに対して、フロレンツが回答した気配がないまま時間が過ぎていく。静かな廊下で、少し活動的になった自分の心臓の音が響くような気がしてクラリッサはゆっくり息を吸う。
こんなことなら浮かれてスキップなんてするべきではなかったのだ。そしたらきっと心臓も静かだったに違いないのに。
呼吸音すら彼らに届いてしまうのではないかと不安になり、息を止めるべきか真剣に考え始めたころ、フロレンツの上質なビロードのような声が廊下に届いた。
「ゲシュヴィスター制度についてどう思う」
次いで、ロベルトがくすりと笑った気配。
「五名家にとっちゃどうでもいいことでしょ、そんなの。ていうかさ、各省から毎日吐き出される意見のナリした愚痴を捌くのが行政府の仕事じゃん。表向き上手くいってる制度をどうこうしようとしたら、愚痴どころか不満が噴出することくらいわかりそうなもんじゃない?
行政府にそれをまとめさせたいんだったら、アイヒホルンは先に交渉っておくべきだったと思うけどねー」
「なんの話だ」
「わかってるくせに。ま、つまりエルトマンはその程度の立ち位置ってこと。昔も今も、ね」
「……エルトマンはな」
(ん……??)
ロベルトの話はクラリッサには全く理解ができない。
ゲシュヴィスター制度と、行政府の仕事とに一体なんの関係があるのか。また、なぜアイヒホルンの名がここで出てくるのか。
ロベルトの家、エルトマンは代々行政府の長を務めている。6つの省を取りまとめ、立法府との橋渡し役を担うのが主な役割だ。ゲシュヴィスター制度そのものは文部省の管轄であって行政府は関係ない。
五名家にとってはどうでもいい、も含めて、彼の言葉はクラリッサの理解の埒外にある。しかしフロレンツの様子は、意図を理解したように見受けられた。
政治の絡む話はクラリッサには難しい。こんな風に断片的な情報だけでは余計に。
頭を抱えてうんうん唸っているクラリッサは、ふたりが会話を終えたことに気づかなかった。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。曖昧笑顔を武器に頑張る。
●ロベルト:エルトマン公爵家長男。チャラモテ男子。仕事はデキるらしい。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。無表情で偉そう。ダンスは魔法使いみたいにうまい。
名前だけ登場の人
●カルラ:バジレ宮におけるクラリッサの侍女。以前はアイヒホルン家で働いていた。
今回登場用語基礎知識
●五名家:ウタビア建国に尽力した五家。ローゼンハイム・エルトマン・グレーデン・ペステル・アイヒホルン。
●ゲシュヴィスター制度:5~10歳の同年代の貴族の子が集まって基礎教育を受ける。元は王族の情操教育が目的であった。
●行政府:現在はエルトマンが大臣。立法府と六省との橋渡し。
●立法府:現在はエルトマンが大臣。立法府と六省との橋渡し。新たな法を周知し、六省からの改善案を立法府へ投げる。
●文部省:国内の教育、倫理を司る。また、外交も担当。現在はギーアスターが大臣。




