第19話 想定外の一面⑤
結局空いた時間を有意義に使えなかったクラリッサは、食事のあとで不完全燃焼だったやる気を発散するため図書室へ向かった。
時刻はもう立派な夜。図書室なら気に入った本を一冊自室に持ち帰って、眠りに落ちるギリギリまで読むことができるのだ。
いつもなら新たな知識や不足する情報を、得る、補完するために使う図書室も、今日はただひたすら自分の楽しいを追及しようと決めている。
例えば他国のおとぎ話と言われる「数千と一夜の物語」や「雅男育児日記」といったエンターテイメント性の高い書物を読むのだと。
バジレ宮の図書室は、アウラー家のそれが十ほど入ってしまいそうな広さだ。扉を開けて一歩入れば、鉄っぽさの混じるインクと埃の香りがクラリッサの肺を満たした。
整然と並ぶ背表紙にはたくさんの人の思いとプライドが感じられる。クラリッサにとって本は、ただ存在するだけで、そこにあるだけで期待や高揚感、感動を与えてくれるものだ。
こうして多くの本が並ぶ様は世界中の知が集約されたようなものであり、奇跡だと。
胸の前で手を組んで、感激で頬が緩むのも構わずにゆっくりと一歩ずつ手近な棚へ近づいて行く。
管理も行き届いていて、棚の側面にはその収蔵された本のジャンルが記載されていた。
諸国のおとぎ話などはどこだろうと、それらしいインデックスを探すと、部屋の奥の方で明かりがチラチラと動いているのがわかった。人の気配だ。
夜の図書室にはヴァルターがいることが多いと聞いていたが、今夜彼はまだ本城から戻っていない。だから今なら誰もいないだろうと考えていたのに。
クラリッサができるだけ足音を忍ばせて近づくとそこには、広い机に何冊かの本を並べ、真っ直ぐなブロンドの髪を耳にかけて本を読むヨハンの姿があった。
随分と集中しているようだ。邪魔をしないようにしなくてはと回れ右をする。
「こんばんは、クラリッサ。こんなところでお会いするなんて、珍しいこともありますね」
離れようとしたクラリッサの背中を追いかけたのは、静かな湖の水面にたつ波紋のようなヨハンの声だ。
まさか気づかれるとは。
「こんばんは。みんなと一緒に夜会へ出かけたかと思ってました」
「それは兄が」
どこかで聞いたような受け答えにクラリッサが苦笑すると、ヨハンは不思議そうに首を傾げた。同じ会話がフロレンツとの間にもあったのだと伝えると、ヨハンもまたフフと笑って頷く。
ヨハンの兄イザークも、ハーパー家を継ぐ者として既に財務省へ出仕して活躍していると聞く。
「お兄様といえば、アメリアやカトリンにもお兄様がいらっしゃいましたよね」
クラリッサはアウラー家の図書室で復習した貴族名鑑を頭の中で紐解いた。記憶に間違いがなければ、ヨハンとアメリアとカトリンにはそれぞれ兄がいて、お互いにゲシュヴィスターだったはずだ。だからこの三家は仲が良いのだとか。
ヨハンは手にしていた本を閉じると、クラリッサに椅子を勧めてふたり分の水を用意した。
これは読書ではなく談話の時間になるらしい。今日はそういう日なのだなと諦めてヨハンの対面に腰をおろす。
「私やフロレンツと違って、女性陣は結婚しないという選択肢は選びづらいでしょうからね」
「ああ……なるほど」
夜会へ出席するのは、なにも仕事のためだけではない。未来の伴侶もまたそういった場所に求めるものだ。……彼女たち自身はそれを望んでいるとは思えないが。
クラリッサは、このバジレ宮にいる人物がまだ誰も婚約していないことにハタと気づく。周囲の期待を思えば出席しないわけにはいかないのだろう。
深く頷いたクラリッサに、ヨハンが慌てて言葉を継ぎ足した。
「すみません。クラリッサの気持ちも考えずに……」
「え? あ、いえ。何も問題ないです」
ヨハンの言葉が、アルノーとの婚約破棄を指していると気づくまでクラリッサには少々時間が必要だった。あれからまだ2ヶ月も経っていないというのに、随分昔のことのように思える。
申し訳なさそうに眉を下げたヨハンに、小さく首を振ってなんでもないことだと伝える。そして訪れた静かな時間は、ずいぶんと穏やかだった。
本の香りに包まれていると多少言葉が少なくても落ち着いていられるのだと知る。わざわざ花の数をかぞえなくてもそわそわせずにいられるというのは、新発見だ。
ヨハンが水を一口飲んで、クラリッサに向き直った。
「そういえばクラリッサは昔の記憶がまるでないと言ってましたね」
「断片的に思い出すこともあるにはあるんですが。あの、ヨハンは当時どんな子でした?」
今までも誰かと接したのをきっかけに、古い記憶が呼び起こされてきた。ヨハンの話が何かのきっかけになればと思いつつ、クラリッサは期待の眼差しでヨハンを見つめた。
彼は例のあの子の最有力候補なのだ。自然と期待が高まって、机に乗せた手にも力がこもる。
「私は……観察者ですよ。今も、昔も」
「かん、察、者?」
思ってたのと違う回答に、クラリッサはポカンと口を開いた。
「ええ。ゲームに参戦はせずただ眺めているだけ。例えばこのバジレ宮において、キングはフロレンツです。そして貴女はポーン。私は勝者を予想してベットします」
キングやポーンといえばチェスだろうか。
確かに幼少期にはみんなで遊んだような覚えもあるが、クラリッサはバジレ宮を出て以来一度も触れておらず、ルールもすっかり忘れている。
「ゲームってなんです? 確かにヨハンはいつも好きなことに没頭してて、駒という感じではないですけど」
「でしょう」
クラリッサは自身のポーン評に納得はするものの、ヨハンの言うゲームがわからない。
(不思議ちゃん系、なのかな)
あまり深く突っ込んでも自分に理解できる話ではないような気がして、クラリッサは世間話へと舵をきった。
貴族流の自虐ジョークに「貴族は変な人が多い」というのがあるが、もしかしたら本当に変な人もいるのかもしれない。
「よく覚えてないんですけど、昔、みんなでチェスをしたことがあるような」
「本当に何も覚えていらっしゃらないんですね? 貴女はなかなかの勝率でいらっしゃいましたよ」
ヨハンが心底意外だという風に目をまん丸にしたあと、すぐにいつもの柔和な微笑に戻る。
実はクラリッサはチェスが強かったという意外すぎる事実は、ルールを覚えていない今なんの意味もない過去の栄光だ。クラリッサはへにゃと笑って受け流した。
「そうなんです。情景は断片的に思い浮かぶんだけど、細部やその場にいた誰かの顔を思い出そうとすると……、なんて言うんだろう、日に焼けた古い看板みたいにおぼろげで」
「言いたいことは理解します。そもそも5歳や6歳なんて、物心がつくやつかずや、何事も漠然、曖昧模糊としているでしょうからね」
目を細めてヨハンが頷いたとき、遠くから「疲れた」と大騒ぎするカトリンの声が聞こえてきた。夜会出席組のお帰りだ。
それを合図に、クラリッサは本を借りるのも諦めて図書室を出ることにした。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。ダンス練習中。お仕事募集中。
●ヨハン:ハーパー伯爵家の次男。クールな見た目。引きこもりという噂。
※名前だけ登場の人
●ヴァルター:ペステル伯爵家の長男。のんびり屋さん。絵描き。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。無表情で偉そう。マイペース。
●イザーク:ヨハンのお兄ちゃん。
●アメリア:ギーアスター伯爵家長女。縦巻きロールと敵対心がチャームポイント。
●カトリン:オスヴァルト伯爵家の末っ子。もちもち。
今回登場用語基礎知識
●ゲシュヴィスター:兄弟姉妹制度として基礎教育を目的に一所に集められた仲間のこと。
●財務省:国家財政および地方行政の監督。現在はハーパー家が大臣。




