第17話 想定外の一面③
パーティーなどの催し物のないホールはガランとしていて、いつもよりもずっと広々として見える。窓から差し込むボンヤリとした月明かりは、ホールの中ほどまでを幻想的に浮かび上がらせていた。
その真ん中をフロレンツがクラリッサの手を引いて真っ直ぐ横切った。廊下の窓よりもさらに大きなガラスのドアを押し開けて到着した先は、ホールから続くバルコニーだ。
外に出てすぐ、クラリッサは流麗な音楽が鳴り響いているのに気づいてフロレンツを見上げた。
「これは……本城から聞こえてるんですか?」
振り返ったフロレンツはやっぱり表情を変えないまま頷いて、クラリッサに手を差し出した。
なるほど、風に乗って届く宮廷楽団の奏でる音をバックに踊るということらしい。
(なんかロマンチックな感じだけど! 殿下の表情がもうちょっとこう、惜しいんだよなぁ)
差し出された手にクラリッサが右手を重ねると、もう一方の手がクラリッサの背中へまわる。
(やばい!)
向かい合って目が合うと、途端に緊張を自覚してしまう。
考えてもみれば、相手は高慢な王子様で、クラリッサはその王子様の指示でダンスの練習をしていたのだ。結果が伴っていないことがバレたらなんと言われるか。
申し訳なさで目を伏せ、必死に全身の動きに集中する。背筋は、指先は、足運びは? 少しでもうまく動かせますように!
「あっ! ごめんなさ――」
願い虚しく、クラリッサの足はこれ以上ないほど完璧なタイミングでフロレンツの足を踏み抜いた。クラリッサの全体重がフロレンツのつま先の一部に乗ったのだ。
踏んでしまった、そう思った瞬間に頭が真っ白になる。音楽は聞こえないしリズムはわからない。重心はどこかに行ってしまったし肩が固まってしまった。
ドミノ倒しのように次から次へと身体機能が活動を低下させていく。そのたびにクラリッサはどうしようどうしようとアワアワして、ついには涙がこみ上げてきてしまった。
(もういや。何もできない、わかんない……)
せめて泣き顔を見られまいと唇を引き結んで俯くと、突然クラリッサの右手がぐっと遠くに引っ張り上げられた。フロレンツが腕を伸ばしたのだ。
「わっ――」
驚いて顔を上げ、右手の先へ視線を向ける。ぐぐっと引っ張られたはずの右手は、クラリッサの肩にも腕にも負担のない位置で固定されている。
肩の位置が変わったせいか、顔を上げたためか、クラリッサの背中もまたスッと伸びて、窓に映った自分の姿勢の美しさにまた驚いた。
「ひっくり返されたウサギか、お前は」
「へ? うさぎ?」
予想外の可愛らしい叱責に、思わず高慢王子を二度見する。
ひっくり返ったウサギを見たことはないが、暴れるのだろうか、それとも固まってしまうのだろうか? クラリッサは、フロレンツがひっくり返ってモゾモゾするウサギを眺めているのを想像してふふふと笑う。
「固まってないで顔を上げて力を抜け」
言われた通り意識的に力を抜くと、ごく自然に足も手も動き出した。
自分の身体ではないみたいに軽くて、まるでマリオネットにでもなったように手足が思い描いたとおりの場所に運ばれていく。
(すごい、すごい!)
これがフロレンツのリードのおかげだというなら、フロレンツはきっと魔法使いに違いない。
こんなにも軽やかにステップを踏めるし、それに何より、いつの間にか涙も乾いているのだから。
当のフロレンツはどこを見ているかわからないような無表情のままだったが、その瞳には庭の灯りが映って、星を浮かべた濃紺の空のようだ。
それがあまりに綺麗で、ずっと見ていたくて、クラリッサは知らず知らずのうちにこの時間がもう少し続けばと願っていた。
どれくらいの時間を踊っただろうか。
ふと立ち止まったフロレンツが「ここまでにするか」と左手をおろす。もう一方の手が背中から離れたとき、クラリッサはほんの少し名残惜しいような気分になった。
「まぁ……、踊れると言えるようなレベルではないが、多少は練習したらしい片鱗が見えた。今日はそれで許してやろう」
手すりに寄りかかったフロレンツがクラリッサに頷く。天上から降り注ぐ淡い月の光が彼のプラチナブロンドを煌めかせて、まるで絵画のようだ。
クラリッサは楽しいダンスの余韻からか、目の前の人物が作り物めいて見えたせいか、高揚した気分のまま心に浮かんだ言葉をポンポンと吐き出していく。
「すごかった! フロレンツはダンスがとっても上手なんですね。まるで魔法にかかったみたいに体が動きました! それに瞳が宝石みたいに綺麗でキラキラしてて!」
フロレンツは興奮のまま言葉を紡ぐクラリッサから目を離し、何も言わず背を向けてしまう。
ただクラリッサには一瞬フロレンツが目を泳がせたように見え、手すりに身を乗り出すようにして顔を覗き込んだ。
この一週間、フロレンツが動揺する姿は一度だって見たことがなかったのだ。もし高慢王子が戸惑っているなら是非拝見したい。とてもいい気分になれそうだから。
(あー、うん、デスヨネ)
庭を見下ろすフロレンツはすでにいつもの無表情だ。そもそも変化があったと思ったこと自体が勘違いだったかもしれない。
ちょっと褒めそやしたくらいで、このポーカーフェイスが崩れるはずもないのだ。
「ここでの生活はどうだ」
「ん」
フロレンツが庭から空へと視線を移す。クラリッサも彼の視線を追って空を見上げるが、月は未だ薄い雲に隠れたままぼんやり黄色い。
「私、昔のことほとんど覚えてないって言ったと思うんですけど、でも誰かと接した分だけ思い出すこともあって……、それが新鮮で、楽しい」
ヴァルターの絵や、ロベルトの笑顔。猫を助けて叱られた事件。それらは全て、誰かに触れたことで思い出したものだ。これからもきっと、たくさんの記憶の欠片を見つけることができるだろう。
ときには間違えて覚えてることもあるだろうけれども。
フロレンツは相変わらず微動だにしない。質問に回答したのだから、うんとかすんとか言えばいいのに。
でももしかしたら回答としてはまだ不十分だったかもしれない。ゲシュヴィスター制度に関連した内容で回答すべきだっただろうか? クラリッサはそう思い直して他に言うべきことを探した。
「あと、学びたいことがいくらでも学べる環境はとても幸せなことだと思うんです。私も、自分がこれからどうやって生きていくべきか、ゆっくり考える時間ができたなと」
「……そうか」
(え……)
クラリッサはひゃっと息を呑んだ。
とても、優しい笑顔だった。あのフロレンツがこんなにも穏やかに笑えるものかと、クラリッサは丸くした目を離せなくなった。
星空、月明かり、笑顔。見惚れるというのは、こういうことなのだろうか。それはやっぱり絵画のようで、忘れることのないよう記憶にとどめておきたくなった。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:建国五名家のひとつで現在は弱小男爵アイヒホルン家の長女。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。無表情で偉そう。グレた王子と一時話題になっていた。
名前だけ登場の人
●ヴァルター:ペステル伯爵家長男。のんびり屋さん。絵を描くのが好き。
●ロベルト:エルトマン公爵家長男。軽薄系イケメン。泣かされた女性は数知れず。
今回登場用語基礎知識
●ゲシュヴィスター制度:兄弟姉妹制度。5~10歳の同年代の貴族の子が集まり基礎教育を受ける。元は王族の情操教育が目的。




