第16話 想定外の一面②
(何も決められなかった!)
クラリッサが食堂でお茶を飲みながら自由時間の使い方に思いを馳せていると、料理長がやって来てぺこぺこと頭を下げながら「夕食までもう少しかかる」と告げた。
もちろんクラリッサも空腹で食堂に向かったわけではないのだが、まるで催促してしまったみたいで恥ずかしくなり、慌ててお礼を言って逃げ出したのだ。
ゆったりと午後の紅茶とシャレこみながら考えるつもりだったのに、何も決まらないまま途方に暮れて廊下を歩いている。
たくさんの時間があるわけでもないし、候補としては日頃の疲れをとるための長風呂か、図書室で面白そうな本を探すか、ギャラリーで……発想力の乏しさがほとほと嫌になる。
静かな廊下にカツコツと響く足音が気になって、なんとなく音をたてないように歩いてみる。
足音のような些細なことは、一度気になるとどれだけ綺麗に響かせるかとか、またはこうしてどうやったら音をたてずに歩けるか、取り留めもないことに挑戦したくなるのだ。
食堂からエントランスへ向かう道中は、大きなガラス張りの廊下が続く。エントランスから正面の階段を上がれば各々の個室のあるフロアだ。
気づけば外はもう随分暗くなっていて、シュテファニの瞳よりも暗く、フロレンツの瞳より明るい空が星を掻き抱きながら広がっている。雲に隠れた月は薄ぼんやりと黄色い。
(げ、フロレンツ……)
いくつも並んだ大きな窓のうちのひとつに、外を眺めるフロレンツの姿があった。無音で歩いていた自分を盛大に褒めつつ回れ右をする。
「どこへ行く」
「あー、後ろに誰かいたような気がしてー、えへへ……」
諦めてもう一度正面を向き直ると、瞳だけを動かしてクラリッサを見るフロレンツと目が合った。月明かりに照らされる横顔と流し目の威力に目が眩む。
綺麗な顔と言えばまずロベルトが思い浮かぶが、フロレンツには彼とは違う武骨な美しさがある。ロベルトが女性的な美しさで、フロレンツが男性的と言うべきだろうか。
俺様王子様のフロレンツもつまりはイケメンなのだ。性格はどうであれ。性格はどうであれ。
「今夜は皆さんと一緒に本城へいらっしゃるのかと」
「それは兄が出る」
フロレンツの兄である第一王子ハインリヒはすでに立太子を済ませ、国の内外に対し王太子としてその手腕を発揮している。
城での夜会なら王太子さえ出席すればいい、とでも考えているのだろうか。クラリッサは首を傾げつつ、深くは追及しないことにした。
代わりにひきつった社交用の笑みを貼り付けて、フロレンツの視線を追いかける。
フロレンツに夜空を愛でるような雅な感覚があるという印象がなかったせいで、クラリッサの目には窓から外を眺める姿がなんとなく不思議だったのだ。
一体何を熱心に眺めていたのだろう。
「ん、ああ、木の上に何かいたような気がしてな」
隣に立つクラリッサの視線に気づいたフロレンツが、雅な感覚など持ち合わせていないことを証明してみせた。
「なにか?」
「いや……気のせいか、野鳥かなにかだろう」
身体を寄せて背伸びをし、できるだけフロレンツと同じ視界を確保しながら外を見る。確かに目の前には背の高い木があって、フロレンツの高さから見ればクラリッサには見えない枝の隙間が見えそうだった。
「そういえば昔、木の上に……」
「ん?」
「いえ、ナンデモナイデス」
クラリッサの古い記憶の箱をひっくり返せば、幼い頃に木の上で降りられなくなった猫がいたことを思い出す。
木の上で震える子猫を見つけた例のあの子は、木登りができなくてクラリッサに泣きついた。クラリッサが木によじ登って無事に子猫を助けることはできたが、あの子とクラリッサは慌てたナニーたちに滅法叱られたのだ。
それでも誇らしくて嬉しくて二人でよく笑った、そんな記憶だ。
しまい込んでしまった思い出の欠片は、まだまだたくさん心のどこかに埋もれているのかもしれない。
「で、ダンスは多少でも上達したの」
クラリッサを甘やかなノスタルジーから引き戻したのは、フロレンツの冷たい声だった。
ちらっと綺麗な横顔を見てから、そっと刺激しないように一歩離れる。
クラリッサにダンスを指導する教師はとても厳しく、一週間みっちりしごかれたおかげで以前とは比べるべくもないほど上達している。はずだ。
ただ、自分でいかに上手になったと思っていても、この質問に正しく回答できるのはクラリッサではないだろう。フロレンツの求める上達レベルがわからないのだから。
かといって、下手に謙遜することもできない。フロレンツが教師を用意したのだ。恐らく王家の選ぶ最高ランクの教師を。
クラリッサの返答如何では、教師が咎められかねない。なんという恐ろしい質問をぶつけて来たのだろうか、この王子様は。
「へへ……どうでしょうか」
結局、クラリッサは曖昧に笑って誤魔化した。
こんな大人になりたかったわけではないのに、その場しのぎの表情ばかりが上達してしまう。
ヘニャリと笑うクラリッサを、フロレンツの冷たい視線がバシバシと刺していく。決して針もナイフも持っていないのに、とても痛い。
顔面の筋肉はまだ鍛え終えていないせいか、上達した曖昧な笑顔が端の方からプルプルと震えて引きつり始めた。いつの間にか睨めっこが始まってしまったらしい。
クラリッサの負けでいいから、何か言ってほしい。
「あの……?」
「よし。俺が見てやろう」
「は? え?」
ガシとクラリッサの手首を掴んだフロレンツは、振り返りもしないまま歩きだした。
見てやるとはどういうことだろう、大体、このあとの予定も確認しないのだからなんという自分勝手! これだから王子様は、と思いつつも王子様相手に抵抗などできようはずもなく、為す術なくついていく。
どちらにせよ、予定はないのだから。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。お勉強漬けで毎日忙しい。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。いろいろ暗躍しているようだがクラリッサは何も知らない。
名前だけ登場の人
●ハインリヒ:フロレンツの兄。ウタビアの王太子さま。




