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死の影

 とっくの昔に死は私の中へと戻ってきており、ずっと暴れ、狂い、叫んでいた。私が生み出した獣。私自身の刃。

 私は屋上の中心に立ち、息を吸い込む。そして、吐き出しながら大声で叫んだ。

「私の中にいる『死』よ!お前がどれだけ私を惑わそうが、私はもう絶対に死なない!お前が駆り立てる死の衝動なんかに私は負けない。残念でしたね。例えお前がこのゲームを永遠に投げずに続けても、お前の勝利はありません。なぜなら、私もこのゲームを絶対に投げたりしないから。永遠に私とお前で、この世界で遊んで暮らしましょう!」

 そう言って私は笑った。

 これは私の宣戦布告だ。

 そう言われて黙っている私の「死」ではない。その言葉に怒り、私の中で暴れ始めたのが分かる。じわじわではない、あっという間すらない、もの凄いスピードで、圧力で、暴力で、私の心が死に支配されていく。死の侵食を止める手立てなど私は持たない。私の肺が、胃が、心臓が、体が、脳が、死で満たされていく。死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね…………………………。

「はっはっは。いやあ、怖い怖い。あー、死にたいなあ。死にたい死にたい死にたい死にたい。こんなに死にたいって思うのは生まれて初めて、いや、死んで初めてだってぐらいに死にたいなあ」

 なら死ね。生きていてなんになる。つらいことだけだ悲しいことだけだ。これ以上生きたらもっとつらいぞもっと悲しいぞもっと死にたいぞ。私がこれ以上生きていたってどうにもならない。誰もいない。だから私はあの時死のうとしたんじゃないか捨てようとしたんじゃないか。それが何を今更命を望む、何を今更生を乞う。見苦しいぞ、生きている人間ほど見苦しく愚かな者はいないぞ。私は正しかったのだ。私の判断は間違っていなかったのだ。運悪くまだ死んでいないが、今もう一度チャンスが目の前にある。さあ、手を伸ばせ。飛び降りるんだ。それで私の願いは成就する。全て私が望んだことじゃないか。この世界もこの夢もこの現実もこの結末もこの幸福もこの救いもこの希望も…………。全て、私が望んだことなのだ。

「…………確かに、私の言う通りです。これは全て私が望んだものの延長線上の、世界だ。私は死にたくて死にたくてたまらないよ」

 ようし良い心掛けだ。だったらさあ早く死ぬんだ。足を進めて、飛び降りて、死ぬんだ。さあ…………死ね。

「でもね」

 私は私の中の私に答える。

「絶対…………死んでやんない」

 あっかんべー、と舌を出す。

 絶対に、死んでも、死んでやるものか。


 うおおおおおおおおおおお。

 その瞬間、私の中から野獣の悲鳴のような叫び声が聞こえた気がした。そして次の瞬間に、私の中から何かが飛び出していった。それは黒いモヤのような物体。夜の黒よりももっと真っ黒な闇が、私の体から出てくる。直感で私には分かった。これが、私の「死」だ。

「すげえ。あんた、自分の体から『死』を追い出しちまった!」

 興奮して、彼が叫ぶ。

「まだです!」

 近寄ってくる彼を手で制する。まだだ、まだ終わっていない。


 そこには、私の中から飛び出した闇が、横たわっていた。


 煙のようなそれがゆっくりと意志をもつ生物のように動き始める。大きな大きなその固まりは幾つかに分裂し、それら一つ一つがまた分裂し、徐々に形を変えていく。そうして、その闇はやがて何十体もの真っ暗な人影へと変わった。私と同じ背丈の、私の影。私の「死」。 

「!!」

「…………んだよこれ」

 彼が呆然と呟く声が聞こえた。


 顔のない黒い影が私を取り囲む。私の中から生まれた、死の偶像達。その不吉の象徴そのものの姿に、恐怖を覚える。だが、絶対に負けられない。

 私は周りを見渡し、大声で言った。

「私を操れないと悟ったから、とうとう実力行使ですか?私を突き落とそうって?あんたたち、プライドないんですか?バカ!」

 影は何も答えない。私の体を飛び出したということは、既に私は死の衝動を克服したということだ。

 うん。もう死にたくない。

 凄く、体が軽かった。


 つまり、目の前の影達は、暴走した私の意志ということか。意志が宿主を離れ、目的の遂行のみに囚われる。元主人の私の命令だとか、そんなことは関係ない。彼らは彼らが生まれた理由のみを追求して、私を殺そうとしているのだ。

「…………なんて世界なんだ、もう」

 私はこんな世界を作った神様と私自身を呪った。

 それでも、私は戦わないといけない。自分の闇と。でないと、本当に死んでしまう。


「やあ!」

 先手必勝。私は腕を大きく振り回し、影達に突進する。何体かの影にぶつかった。影達はそれほど質量がないらしく、私の手や体が当たった影達がギギギと悲鳴を上げ吹き飛んでいった。

 私は自分の手のひらを広げ、握る。

 これなら、なんとかなるかもしれない。

 すかさず次の攻撃に出る。といってもやることはさっきと一緒、体当たりだ。もう一度腕を振り回しながら突進する。

 しかし影達は、先ほどの攻撃で私の技を見切ったようだ。風のように軽やかに体をかわし、私の腕は空を切る。一体の影が私の背後に回りこみ、背中に張り付いた。ゾワっと――一瞬で全身に悪寒が走る。同時に今心の中に根付いている、生に対する炎まで、消し去るほどの悪意を感じた。

「離れて!」

 私は地面に背中を投げ出し転がる。全身を強打するが、構っている場合ではない。

 立ち上がろうとする私に影達が覆いかぶさる。

「オオオオオオ……」

「…………っく」

 私はそのまま力任せに影達を持ち上げ、屋上の入り口の壁に突進した。私と壁に挟まれた影は人間の形を失い、黒い影は悲鳴を上げ、闇に消えていった。

 そして私は戦い続け、何体かの影を消し飛ばした。

 しかし、私1人に対して影の数は数十対。最初にいた数の3分の2くらいまでには減らすことが出来たが、どうやら彼らには疲労がないようだ。残った影達は皆元気だった。

 一方、私の方は、既に満身創痍。全身をいたる所にぶつけ、痛みがそこかしこに走る。額からは汗が止めどなく流れ、気力だけで立っている状態だった。

 だが、決して諦めない。私は突進を繰り返す。

 しかし、勢いも落ちている私の動きでは、疲れのない彼らを捉えられない。私の攻撃が終わるのを見計らい、二体の影が後ろから私を羽交い絞めにする。

「うわあ。くっ」 

「ウオオオオオ……」

 そのまま力任せに放り投げられる。私は 地面を転がる。転がりついた先は、あと一歩で空中の、屋上の端だった。後ろを振り返ると影達がゆっくりとこちらに向かって歩いてきている所だった。 

 完全に追い詰められた。

 一体の影が歩み出て私の眼前に立つ。その影が両手を突き出せば、次の瞬間には私は空を飛んでいるだろう。

「ウオオオオオ……」

 影達が両腕を上げ、雄たけびを上げる。



――ここまでか……。

 私は観念して、目を閉じ――。









――次の瞬間、目の前にいた影が、縦に真っ二つになっていた。

「……え?」

 何が起きたのか、分からない。

 それは真っ二つになった影の方も同じだったようだ。両手を突き出す格好のまま静止した状態で、悲鳴をあげる間もなく闇に消えていく。

 私は閉じようとして途中で止まっていた瞳をゆっくりと開く。消えていく影の奥に誰かが立っている。その手には黄金に輝く剣が握られている。

「ウオオオオ……」

 標的をその人物へと変え、襲いかかる影。それを半身下がって避け、影の右肩口から斜めに一閃。斬り払う。私に背を向けた状態で、影達を剣で牽制するその人物。


 そのままの体勢で、私に訊ねる。

「どうした?ふらふらみたいだけど。もう降参っすか?」

「……まさか、降参なんてするわけないでしょ。余裕ですよ、もう。まあ……ふらふらなのは確かですけどね」

 笑って、私は答える。

「……そうか、それは大変ですな。だったら――」

 剣先を影達に向けて、彼が叫ぶ。

「――この道化が助太刀いたす!」


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