殿中でござる
我が、初めて主と出会ったのは、恵み深き森のはずれであった。大地を揺るがす轟と共に降り出した砂の雨に、我を忘れて逃げ出した先で、人族の男と連れ立っておられた。
たまたま、行き会った狼の小娘どもは、すぐさま主にその身を差し出した。我は、不覚にも傷を負ってしまっている。主に仕えるには分不相応と思い、一度は辞退した。
それでもなお、主は我を望んでくださった。
主の懐は暖かく、徐々に我の傷を癒していく。
なんと、慈悲深く、なんと、力強いお方か。
このご恩に報いるため、この身果てる時までの忠誠を誓った。何があろうと、お側に侍ろう、と。
ようやく不自由無く動けるようになったので、懐から出てみれば、主はご自分で駆けて往かれる。この身は傷ついていても早駆けに支障はない。その我を置いてゆく足の速さは、さすが我の主と感服した。
更には、小娘どもよりも先に、我が身の傷を労ってくださる。
ああ、主の手の心地よい事。
だというのに!
主は、我を放逐なさろうとした。
この身は既に主の物。どうして、離れられよう。
小娘どもと共に、主にお仕えすることを懇願し、ようやく認めてくださった。その証に、名を頂いた。ムラクモ。不思議な響きの名だ。我にふさわしい。
我の角を主に見せたとき、おもしろがられた事はおもしろくなかったが。
主に従った先で、馬を連れた人族と合流した。どうやら、主は、彼らと同行するご予定のようだ。
これより先は、我が居るのだ。それとも、我の背ではご不満なのだろうか。
ようやく、我にお乗りくださった。
うむ。すばらしい。なんと言う喜び!
先導する馬達が背に括り付けている物がある。乗り手の体を安定させる事ができるようだ。鞍、というらしい。主にふさわしき鞍は、どのような物が良いだろうか。
東天王の登場に、小娘どもは全力で逃げ出してしまった。
どのような話をされたか、我には聞こえなかった。かの方を制して有り余る主の威光に、主こそが「魔天の王」ではないか、と気付いた。今更ではあるが、「魔天の王」の近侍として我では力不足ではないかと怖じ気づく。だが、我は誓ったのだ。我は、我に出来る事をするまで。そうとも。
故に、同行していた馬が逃げ出さないように止め置いた。
人族は、我らを狩る。それは、彼らの習い。そして、手に入れた物を使って新たな物を作る。それも、彼らの習い。その技があってこそ、ひ弱な人族も[魔天]の恵みを得る事が出来るのだろう。
主は元から強者である。にもかかわらず、様々な道具を用いられる。我も、見習うべきか。現に、鞍を身につけるようになって、主は我が背にあっても楽にすごせられている、気がする。
我は、地味すぎると諌言申し上げたのだが、主は、見栄えでなく素材の良さを力説された。
何かとは、主の為の鞍である。人族に習って、主自らの手で作られた。我が背に備え、主が背乗くださる。
確かに、これなら少々手荒に走っても主を振り落とさずに済むだろう。いや、そのようなことにならぬよう精進するのだ。
それはともかく。
パンという食べ物はなかなかによい。
主の作られる料理は、さらに美味である。赤根なるものを初めて口にした。はしたなくも、おかわりを所望してしまった。
主に求められれば、籠でも馬車でもなんでも担ごう。決して、褒美として我が食したいからではない。違うと言うている! そう言う小娘どもも、主の肉料理を旨そうに食らっていたではないか。
ようやく、妙な気配のする卵を手放された。預かっていた我も、一安心である。
道中、主は我らに様々な料理を供してくださった。北天王より供された猫娘すら、小娘どもの力説に好奇心を刺激され、我らが主に従う事を選んだ。
まあ、役に立たない事もない。同行を認めよう。
主は、料理のみならず、様々な物をお作りになる。
特に、馬車。至高の一品と言えよう。凡庸な馬どもでは、役不足である。我とて、主の馬車にふさわしいとは言い難い。だが、いま、この場において他の誰がおろうか。け、決して、我が欲したわけではない。猫娘、その目はなんだ。違うと言っている!
人族に下賜されるとは、残念無念でならぬ。しかし、主は、再び我に作ってくださると約束された。二度と、他の者にはやらぬ。そう決めた。
主が先を急がれるという。今こそ、我がお役に立つとき! 夕刻、しゃしゃり出た猫娘には、もの申したいところではあるが、今は、主の願いが最優先である。
ふーっ。我の全力を尽くした。主は、最後まで我の背に身を委ねてくださった。これは、鞍というものの効果であろうか。今後も大事にせねば。
主の御寝所に招かれた。太古の森もかくあらんという重厚な魔力に満ちた土地である。小娘どもが怖じ気づくのも無理はない。そんな我らに、主は、印可を授けてくださった。これ以上、主をお待たせするわけにはいかぬ。
表が何やら騒がしい。人族が我らを差し招いているのか。小娘どもは、真っ先に主の懐から飛び出して行った。落ち着きのない奴らめ。ふむ。主に悪意ある人族ではないようだ。忠義に励むが良い。
それにしても、狭い小屋だ。む? むむっ、主の部屋であったか。なに故に、かような数の人族が詰めかけていたのか。主に失礼ではないか!
再び竜を見た。相変わらず無駄に大きい。
だが、主は、主は、その竜を叩き倒した。なにか、主の気に障る事を仕出かしたらしい。自業自得というものだ。
だが、主よ。その、少々、いや、かなり怖いのである。銀の小娘が仲間はずれにされた時の立腹ぶりとは比べ物にならぬ。いや、主の怒りであるからにして当然ではあるのだが、だから、その威圧をやたらと振りまくのはいかがなものかと。
人族の中で、主が目立たぬというのは無理難題というもの。主に従う身であれば、その意を汲むべきである。であるが、そのようにお怒りでは、目立たぬ所か注目を集めておられるではないか。
主の命であれば致し方あるまい。竜人の世話をまかされる事となった。こやつ、なんと落ち着きのない。この道行きには、他にもひ弱な人族を同行させている。主の手をこれ以上煩わせない為にも、こやつからは目が離せん。
目的地に到着したようだ。猫娘と共に、石壁を越えていかれた。まだ竜人から離れてもよいとのご命令はない。ただ、待つしかない。
人族どもが、なにをしていた!
主が負傷されるなど、あっていい事ではない。我らまで衝撃を受けてしまった。すぐにもお側に駆けつけたい。だが、主より預かりし荷がある。これ以上、我が動揺していては小娘どもに示しがつかぬ。さらには、同道していたみどりやトリからも、迂闊な行動はするなと嗜められた。
ようやく、床を離れられたようだ。だが、主から、あの美しい瞳が失われてしまっていた。なんと無念なことか。
しかも、この異臭は何たる事。主の手を今一度、と叱咤すれど、我が身はお側に留まる事すらかなわない。なぜ、このようなことになったのか。我の不甲斐なさに歯噛みするばかり。
我らをお見捨てになられたのか! 置いてゆかないでくれ。主よ、我が主よ。なぜ、逝ってしまわれる・・・
・・・身の内より、かすかに、主の懐深くにあった熱を感じる。主よ、何処を彷徨うておられるのか。我らでは、探し出す事は叶わぬ彼方に居られるのか。
今は、このぬくもりを信じて、お待ちしよう。いつか、またいつか、我らの元にお戻りくださる、と。
主が姿を消して、意気消沈していたのは人族どもも同じであった。こやつらに情けない姿は見せられぬ。
そう。未だ、任は解かれていない。この人族どもと共に、主を待つ。お帰りくださる時を待つのだ。
何故それを早く教えないのか、この小娘どもは!
我がこの人族どもの集落から一時離れてている間に、主がお戻りくださったというのだ。再び、お側にお仕えする時が来た。いつお呼びが掛かるか、待って待って待ちこがれ・・・
我は、ここにおります。主よ。我は、ここに。
もう、待ちきれぬ! 不遜とお叱りを受けようとも、今一度、ご尊顔を拝すること、お許しくださいますよう!
・・・なぜに、我よりもそこな人族の子供と話などされておられるのだ。我は、ここに。ここにおりますのに。何故!
「お、落ち着こう。ね?」
一応、念のため、レンやアンゼリカさんにとばっちりがいかないよう、テーブルから離れた。いや、ムラクモ君。なんで、そんなに鼻息が荒いのよ。ボクに会えて嬉しい、という雰囲気ではない。ないよね。
別のテーブルを挟む位置に立つ。無造作な前脚の一撃で、障害物はまっぷたつ。
「その、何を怒ってるの、かな?」
声を掛けるが、なんかもう聞いてない。逃げたら被害が広がる、とは判っていても、でも逃げる! 取り押さえる方法が判らない。
三葉さんたちに頼もうとしたけど、ブルブル震えるだけで、当てに出来ない。南天のグリフォンは良くて、ムラクモは駄目って、ああ、君達、元植物だもんね。草食系には歯が立たないのか。
などと考えている間にも、次々と椅子やテーブルが犠牲になる。食堂の床は残骸だらけ。そして、ボクは壁際まで追いつめられてしまった。じりじりとにじり寄って来るムラクモ。鼻息で吹き飛ばされそうだ。
「ロナ。なにか食べさせて差し上げれば、賢馬殿も落ち着かれるのではないか?」
食いしん坊のレンらしい意見だ。
「そうかな。そうなのかな」
今は、他に手段を思いつかない。手早く、クッキーを取り出した。
「えーと、賢狼殿と金虎殿には食べてもらって、うん。おいしいって言ってくれたんだけど、どうぞ?」
が、ムラクモは、クッキーには一瞥もくれない。あ、あれ?
随分と面変わりをされてしまっていた。なんとおいたわしい。それでも、ほとばしる力は、以前よりもさらに研ぎ澄まされ光り輝いておられる。さすがは、我が主。今の瞳の色も、よくお似合いだ。傷もすっかり癒えられたようで、誠に目出度い。
ああ。今、こうして我の前にいらっしゃる。
主よ。我は、再び主にお仕えすることを認めていただけるのか。
主よ。我は、再び主にお仕えすることを認めていただけるのか。
何か伝えたい、という気迫は判る。でも、何を言っているのかが判らない。どうしたらいいんだ。
主よ。我は、再び主にお仕えすることを認めていただけるのか。
クッキーを持っていない方の手を、そーっと伸ばす。
鼻の上に掌を乗せる。
ゆっくりと撫でてみる。
主よ!
「ロナ?!」
バックリと銜えられてしまった!
あああ、なんということを!
思わず、差し出された主の手にしゃぶりついてしまった。主の手は記憶にあるままに暖かい。この気、この魔力、柔らかな波動。主だ。我が主だ。お懐かしい。どうか、どうか今しばらく、このまま・・・・・・
・・・噛み千切る気はないようだ。クッキーをポケットにしまい、右手で大きな顔を、その頬を撫でる。
森の色をした瞳から、涙がこぼれ落ちる。
ああ、そうか。そういうことだったんだ。
「うん。元気そうでよかった。久しぶり。待たせたね」
小声で、ムラクモにだけ聞こえるように囁く。
ひん
ボクの肩に顔を寄せて、ぼろぼろと泣くムラクモ。ふいてもふいても涙が溢れてくる。
「賢馬殿が泣くほどおいしいのか。やっぱり、ロナはすごいな」
「ちがうでしょ!」
食べてるのはボクの手。クッキーはポケットの中。見えてなかったの?
ようやくムラクモが泣き止んでくれた。手も放してくれた。
「そろそろ、いいかしら?」
ムラクモの耳が立つ。すぐさまへニョリと伏せられた。ボクはボクで、金縛り。
「ムラクモさん? この食堂はね、作り直したばかりだったのよ。わかるかしら?」
あ、後退りしてる。脚に震えがきているのは、気のせい、じゃなさそうだ。
「ななしろさんも。いくら、ムラクモさんがいい子でも、いきなり口に手を入れるなんて」
「え? ボクが入れたんじゃなくて」
「危ない事をしちゃ駄目、でしょう?」
アンゼリカさんは、にこにこと笑っている。顔は笑っている。が、目が笑ってない。
「姫様。こちらのお客様、しばらく私に預からせていただけないかしら?」
「うん?」
「ええ。お店の事とか、ムラクモさんの事とか、いろいろと、いろいろとお話したいのだけど」
「・・・」
ボクが逃げまくった所為で、テーブルは一セットを残して全滅。踏み割られた木の破片が、壁や天井にまで突き刺さってたりする。
ムラクモってば、食堂に入ってから本当にボクしか目に入ってなかったみたい。今は、店内を見回し、惨状に引きまくっている。
「それとも、姫様も」
「あ、いや。わたしはこれで帰ろう。ロナ。後は頼む」
言うや否や、「森の子馬亭」から駆け去ってしまった。ハナ達も引っ付いていった。見たまんま、尻尾を巻いて逃げ出したのだ。
おおい、助けてくれないの?!
「さ。これから、全部、話してもらいますからね?」
「え?」
「クララ? 臨時休業の札を出しておいてくれるかしら。それと、改装をお願いした大工店にも、連絡してね」
「は、はいっ」
「使えないのは食堂だけだもの。お泊まりのお客様には、食事代と迷惑料ををお渡しして」
「はい、はいっ」
「わたしは、こちらの方とじっくりお話するから、後はお願いね」
「はい。女将さん!」
厨房の入り口から覗いていた、もとい野次馬していたクララさんほか従業員一同が、一斉に動き出す。
食堂の外扉が閉められ、ちらかった食堂はそのままに、ボクとムラクモとアンゼリカさんがとり残された。
「あああの、女将さん?」
「まあっ。ちゃんと名前で呼んでと言ってたでしょう。それとも、今度こそ、おかあさん、って呼んでくれるの?」
「え?」
「姫様といっしょに来るとは思ってもいなかったわ。
・・・もう、すっかり元気そうね。よかった」
ふわっ
抱きしめられた。
「え、え?」
「ふふっ。おかえりなさい、アルちゃん」
「あの、ボク、ななしろって」
そういえば、店を閉める直前に、アンゼリカさんはちゃんと呼んでくれてたっけ。でも、なんで、今、アルって呼ぶの? ねえ。
「いつ、顔を出してくれるか、心待ちにしてたのよ。もう、お母さんを待たせるなんて、悪い子ね」
ばれてる?!
「ヴァンから手紙ももらったけど。全然変わってないじゃないの」
ヴァ、ヴァンさんのバカーっ。あれほど内緒にしてって言ったのにーっ。
「別人! 人違い! ボク、そんな人じゃないからっ」
「だめだめ。お母さんにはお見通しよ?」
ぎゅーっ
「本当にもう、無茶ばかりするんだから。心配ばかりさせて、させるなんて・・・」
肩が震えている。
アンゼリカさんも泣いていた。
ムラクモ。緊張しすぎて、殺気にまで昇格していたとは。




