五.
本屋から出た聖斗が空を見上げると、すでに太陽は身を隠し、空には月神のシンボルともいえる月がその存在を主張していた。
(やつはどうなったかな)
聖斗の頭をよぎるのは、公園に残してきたしょうけらのことだ。瀕死の体とはいえ誰が来るかも分からない公園に放置するのは非常に危険なことだった。
(……行ってみるか)
気になった聖斗の足は自然と公園の方へと向く。聖斗はあの時にとどめを刺していなかったことに多少の後悔を感じていた。
最初はゆっくり歩いていたのだが、その歩みは自然と速くなる。最後は軽く走るくらいの速度で公園へとたどり着いた。
(これは……?)
聖斗の目に飛び込んできたのは、一時間ほど前にいた時とは打って変わった公園の状況だった。
入り口を陰陽師たちが封鎖し、さらに公園の中にも多くの陰陽師たちが集まっていた。
「どうした?」
「ちょ、ちょっと君! 一般人は立ち入り禁止だよ!」
聖斗が公園に入ろうとすると、入り口の警備をしていた若い陰陽師に止められた。制服姿の聖斗は傍目には確かに学生にしか見えない。
「……《月の眼》解放」
聖斗は月神家だけが操ることのできる力、《月の眼》を解放し、若い陰陽師を睨みつけた。
「これで満足か?」
「つ、月神家の方でしたか! す、すいません! どうぞ!」
目を見た瞬間、自分が制止した相手がどういった人物かを理解した若い陰陽師は、素早く体を引いて道を開けた。聖斗はその傍を通り抜けると、すぐに自分が戦った辺りへと小走りに近づいた。
近づいて見えてきたのは、聖斗が磔にしていたしょうけらの死体だった。聖斗が立ち去った時の状態でとどめを刺されたようだ。それを見て聖斗は内心でホッとした。逃げられたのかもしれないと思っていたからだ。
(やれやれ……徒労だったな)
どこか焦っていた自分を思い出し、聖斗はため息をつく。そんな姿を多くの陰陽師に見られたのは失態だ。そう思った時、近くの陰陽師たちの会話が聞こえてきた。
「で、もう一匹の所在は分かったのか!?」
「まだです! 散開して追跡中!」
その会話の中の一言が聖斗の耳に強烈に残った。
「『もう一匹』だって……?」
聖斗は勢いよく振り返ってしょうけらの死体に目をやる。すると同時に視界に入ったのは、白い布だった。先ほどまで陰陽師たちに囲まれていたために見えなかったのだ。白い布は膨らんでいて、その下になにかを隠していることが分かる。聖斗にはその下にあるものの予想がついた。白い布の所々が赤く染まっていたからだ。
聖斗はすぐ隣にいた陰陽師の肩を掴んで自分の方に振り向かせる。
「これはどういうことだ!?」
自分の声が覚えのないくらいに震えていることがどこか頭の冷静な部分が知覚した。
「き、君は……」
「俺は月神聖斗だ! さっさと状況を言え!」
「は、はい! あのしょうけら、あれの他にもう一匹! 陰陽師一名を殺害後、公園の南に逃走中です!」
「南だって……」
公園の南、そこに広がるのは住宅地だ。そんなところに仲間を殺されて激高しているだろう妖怪が紛れ込んだとなるとどうなるか、それは火を見るよりも明らかなことだった。
「くっ!」
聖斗は走った。とにかく南に向かって。自分が招いた最悪の事態、それの終止符を打つために。
どれほど走っただろうか。聖斗は立ち止まった。肩で息をしながら周りを見渡す。走ってきたこの方向が正解かもわからない。しかし、聖斗にはなぜか確信があった。
周囲の住宅からは明かりが漏れている。その明かりの下にそれぞれの人の生活があるのだろう。その生活を脅かすわけには、失わせるわけにはいかない。――それを守るのが陰陽師の仕事だ。
そんな当たり前のことに、聖斗はこの状況下で気がついた。いや、忘れていた気持ちを思い出したという方が正しい。
権力を欲し、その中で忘れてしまっていた初心を聖斗は思い出したのだ。
(絶対に、守る!)
聖斗はそう心に決意した。しかし、一度間違った方向に進んだものはそう簡単に元には戻らない。戻すためにはそれ相応の代償が伴うものだ。
「きゃあああ!」
ガラスが割れる音と同時に静かだった街角に悲鳴が響いた。聖斗はハッと顔を上げて、悲鳴がした方向にある家に駆けだす。建売の二階建て住宅だ。周囲を目隠しの塀に囲まれている。入り口から家の庭へと入った聖斗が見たものは、庭に面したガラス戸が粉々に砕かれている様だった。ガラスの破片が家の中にあることから、そのガラス戸が外側から壊されたということが分かった。
聖斗がガラス戸に駆け寄る。
「……ちくしょう」
家の中を見て、思わず悪態が口からこぼれた。聖斗の先ほどの決意も空しく、恐れていた事態は起こってしまっていた。
戸口に立った聖斗の足元。砕かれたガラス戸の破片を被った状態で男性が倒れていた。顔面を酷く斬り裂かれていて一目で死んでいることが分かった。仕事から帰ってきた直後だったのか、崩れた顔面とは逆にカッターシャツをきっちりと着ているのが滑稽に感じた。
聖斗は飛び込むようにして家の中に入った。入った先はリビングだ。電源の入ったままのテレビの中では芸人らしき二人組が笑いをとっていた。
テーブルの上には夕食が並んでいて、添えられたスープはまだ湯気を上げていた。さっきまで確かに存在した人の生活のワンシーン。ここだけ見ると何事も怒っていないように思える。しかし、そのテーブルの足に寄りかかるようにして倒れている女性の光を失った瞳がそれは違うと否定する。
「そんな……」
聖斗は目の前の事態に茫然と立ち尽くす。取り返しのつかないことをしたという思いが聖斗の胸を支配する。
聖斗が視線を上げると、カウンターの上に飾られた写真立てに目がいった。その中には両親と二人の姉妹が笑顔で写っていた。
その時、ガタンっという物音が頭の上でする。そしてその後に短い悲鳴。
(まだ人がいる!)
聖斗は弾かれたように走り、階段を駆け上がる。写真のとおりなら、まだ二人の姉妹は無事のはずだった。
(まだ……まだ助けることができる! 無事でいてくれ!)
聖斗は全身で願いながら二階に到達する。
「いやああああ!!」
同時に絶望的な悲鳴が聞こえた。
「そこかぁ!」
聖斗は悲鳴が聞こえた部屋のドアをけ破るようにして突入する。そして目にした光景は、またしても聖斗の願いを裏切るものだった。
部屋の中央に聖斗が殺したしゅうけらより一回りほど大きな別個体のしょうけらが陣取っていて、その向こうの壁際で制服姿の少女がうずくまっていた。背中には引き裂かれたと思われる大きな傷があった。少女はピクリとも動かない。
――間に合わなかった。
その言葉が頭の中に浮かんだ瞬間、聖斗の中でなにかが切れた。
「うわああああ!!」
叫び声を上げて、しょうけらへと視線を向ける。向こうも聖斗に気づいたようで、体の向きを反転させた。手元の鋭い爪からは真っ赤な血が滴っていた。
「《月の眼》解放!」
聖斗がそう叫んだと同時に、しょうけらが向かってくる。聖斗としょうけらの視線が空中で交錯した。
「《月慧呪》!」
聖斗が全身を声にして叫ぶ。聖斗を中心にして発した光が部屋の中を包み込んだ。その一瞬の光が収まると、部屋の中は静寂になっていて、しょうけらはその動きを止めていた。
しょうけらの目、鼻、口、耳、顔にあるあらゆる部位から血が垂れている。すでに決着は着いていた。
《月慧呪》、それは月神の一族が《月の眼》を解放した時のみ使用可能な奥義の一つだ。その能力を簡潔に説明すると、『眼を見ただけで呪殺できる』という強力かつ凶悪な術である。即効性、威力共に呪術の中でも最上位だ。しょうけら一匹を葬るのは造作もないことだった。逆に一度使うと一晩は使えないことから、デメリットの方が大きいとさえ言えた。
しかし今の聖斗にそういった考え方をする余裕はなかった。ただ目の前の敵を排除すること、ただそれだけが目的だった。
しょうけらの体がぐらりと傾いて、そのまま床に崩れ落ちた。それになんの反応を示すことなく聖斗は茫然と立ち尽くしていた。
自分の些細な気まぐれ、その結果のすべてがこの部屋の中にあった。
「くそ……くそ……」
立っていることさえ辛くなった聖斗が倒れ込むように両膝をついた。ドンという音が室内に響く。
「……ひっ」
その時、聖斗の耳に小さな悲鳴が届いた。すぐにその声がした方向を見る。聖斗の視線の先にあるのは、壁にもたれるようにしてこと切れた少女の亡骸。その亡骸の下で動くものがいる。
「――っ!」
聖斗は立ち上がると少女の亡骸に駆け寄った。そこには亡骸に覆い隠されるようにして座り込んだ黒い髪のもう一人の少女がいた。リビングにあった家族の集合写真の顔からして妹の方だろう。死してなお妹を守ろうとした姉の血で体を濡らしながらガタガタと震えていた。
「おい! 大丈夫か!? 怪我は、怪我はないか!?」
聖斗は生き残った少女に矢継ぎ早に質問をした。しかし少女は放心状態でその質問には答えてくれない。だが、体を見たところ怪我はないようだった。
突然、ホッとしていた聖斗に少女がいきなり抱きついてきた。聖斗はその勢いを殺し切れずに尻餅をつく。
「……お父さん、お母さん、お姉ちゃん」
少女は聖斗の胸の中でガタガタと震えながら家族のことを呟く。それを聞いた瞬間、聖斗は耐え切れずに少女の体をきつく抱きしめる。そうしないと自分の目から熱いものが零れそうだったからだ。しかしそれを簡単に流すわけにはいかなかった。この場でそれを流す資格は自分にはないと思ったからだ。
聖斗はそれを我慢する代わりに、少女に向かって言葉を絞り出した。
「大丈夫、もう大丈夫だから。君は俺が守るから……絶対、絶対に守るから」
「…………守ってくれるの?」
その聖斗の言葉に反応して、少女が問いかけた。
「あぁ……俺は陰陽師だ。陰陽師はみんなを守るためにいるんだからな」
聖斗が優しく言葉を返すと、少女が顔を上げて聖斗を見た。
「俺は月神聖斗。君の名前は?」
「……私……私の名前は由美……夜坂由美」
「そっか……」
血の臭いが立ち込める真っ暗な部屋で聖斗と由美は出会った。この夜のことを聖斗は永遠に忘れることはないだろうなと、遠くから近づいてくるパトカーのサイレンの音を聞きながら心の中で呟いた。




