第58小節目:エンパシー
「…………嫌だ」
そう呟いたのは、市川の方だった。
「……こんな自分が、本当に嫌だ」
言いながら、力がさらに強まる。圧迫されて息が苦しくなり、声が出ない。
そうこうしている間に、CDの取り込みが終わり、ピロン、と間抜けな音がパソコンから静かな部屋に鳴った。
「だから、もうやめる」
その言葉とともに、力は緩められて、背中に巻きついていた感触はそっと離れていった。
「天音……?」
少し出してなかったくらいで簡単に掠れたおれの声を聞いて、彼女はふっと笑ったみたいだった。
「私、分かったんだ。小沼くんのことを気にかけて、小沼くんのために生きているうちは、私は小沼くんの隣にいていいんだって思えない」
「……おれは、そんなに大した人間じゃない」
「問題は、小沼くんじゃないのかもね」
「どういうことだ?」
「あはは、教えない」
さっきまでじめじめしていた部屋の空気が、市川の笑顔で乾き始めた。
「だから私ね、12月のロックオンに向けて、また一人で曲を作ってみようと思うんだ。誰のためでもない、自分が自分を認められるような、そんな曲」
市川は自分の腕を自分で掴んで決意を滲ませる。
「私が、世界で一番好きな曲を、また、自分の力で作る」
「……そっか」
それが彼女が彼女自身の自立を認められる行動だというなら、それはバンドの成長と逆行するわけでもないし、止める理由もない。
だけど、それにしても。
「市川、自己解決がすごいな……?」
自立って意味では余裕でしてると思うんだけど……。さっきからほぼ一人でしゃべってるし。
「……?」
自覚がなかったのか、市川はおれの指摘にキョトンとした顔をしてから、
「私、悪い癖が治ってないなあ」
と、自分に対しての呆れ笑いを浮かべていた。
数日後の放課後。
スタジオオクタのフロントで、パソコンの前に4人で並んで座っていた。
画面には、青春リベリオンの応募フォーム。
バンド名、代表者、などの入力箇所に入力をした後、音源を添付までして、あとは最下部の『応募』のボタンをクリックするだけだ。
「うわー、緊張するね……!」
「ねえ、誰が押す? 今日の運勢、誰が一番いい……?」
「拓人の星座は1位だったよ、今朝の占い」
「え、おれも知らなかったんだけど。っていうかおれ押すの嫌なんだけど……」
おしくらまんじゅう状態でぶつぶつと責任をなすりつけあう情けないメンバーたち。
「お前ら、早くしろよ……誰が押しても変わんねーよ……」
神野さんが脇でイライラしている。
「うーん、じゃあ、みんなで押そう?」
「……うん」
ノートパソコンのトラックパッドに市川が指を置くと、沙子がその上にそっと指を添えた。
「沙子さん? 指、上?」
「……4本の指でクリックするとまた別の動作するかもしれないでしょ」
「そういうものなんだ?」
たしかに、そういうものだ。けど、沙子の苦し紛れの言い訳に聞こえないこともない。
「よし、あたしも」
「……うっす」
その上に吾妻、おれの順に指を載せた。
「じゃあ、行くよ? せーの!」
4人でぐぐっと押し込むと、
『応募を受理しました! Get the Rock!!』
という、意味不明なメッセージが出てきた。大丈夫か、青春リベリオン事務局さん……。
その画面に対して吾妻が手をすりすりしながら拝むように頭を下げた。
おれも遅れて真似をする。
神頼みを済ませて顔を上げると、画面の向こう側に、神野さんが腕組みをしてニヤニヤしながら立っていた。
「……舞花部長、何してるんですか?」
「いや、ここに立ってると拝まれてるみてーで面白かったから」
「はあ……。拝んで欲しいならいつでも拝みますけど」
「やめろ、アタシを崇拝すんな。ぶっ飛ばすぞ」
ツンデレ後輩吾妻に言われると、神野さんがにらむ。
「あはは……それじゃ、気持ちを切り替えて、」
そんなやりとりを楽しげに見てから、市川は、にこっと笑って腕を振り上げる。
「ここからは、12月ロックオンに向けて全速前進、だね!」




