第72小節目:それだけ
『え、小沼くん? 本人?』
「本人ってなんだよ……」
『うわあ、本当に小沼くんの声だ……!』
市川が信じられなさそうな声を出す。電話の向こうでは驚愕に目を見開いているのだろう。おれはラジオパーソナリティかなんかなのか?
「そこまで驚かなくても……」
『だ、だって、小沼くんから電話くれたことなんかなかったから……! どういう風の吹き回し?』
いや、たしかに、おれから電話したことないかもしれないとはおれも電話かける前に思ったけど、ていうかそう思ったから電話するのに躊躇も緊張もしたわけだけど、そんなに珍事扱いされるとなんだかなあですよ。
「その、今日一緒に帰れなかっただろ? だから……」
『ごめんって、謝ろうとしてくれたの?』
ふわりと優しく彼女が微笑む気配がした。
「いや、ごめんとかじゃなくて……」
『え、違うの?』
その綺麗な声がくるくるとその音色を変える。
「ごめんとか言うとおこがましいっていうか、市川がおれと帰りたい前提なのが自分的に気にくわないっていうか……」
『んん……?』
「つまり、その……残念だったんだ。おれ自身が」
『はぅ……っ!』
電話の向こうで息を大きく吸い込む声がする。
「だから、せめて……その、」
電話でもいいから話したかった、と口に出そうとしてそのセリフのこっぱずかしさにためらったその一瞬に、
『も、もうだいじょうぶです!』
と市川が言葉を挟みこんだ。
『そ、それ以上は、だめ……!』
「お、おう……?」
赤面したような声を出して、市川がおれの疑問を押しとどめる。
『あ、あのね、小沼くん? 今、私たち、ライブ前の大事な時期なんだよ? こんなことしてたら、ほら、バチがあたるよ……!』
こんなこと、って、そんなけったいなことをしようとしたのか、おれは……?
『だ、だいたい! 小沼くんが一緒に帰れないって言ったんだよ? なのに残念とかっておかしい、でしょ?』
「た、たしかに」
それは正論だな……。
『いきなりなんでこんなタイミングでフルコースなのかなあ、この人は……』
とはいえ、やたらとどぎまぎしている様子に首をかしげる。
その姿はなんとなく、いつもの市川らしくもない気がした。
「なんかあったのか、市川?」
『……はいそうでした、私は市川でした』
すん、と電話の向こうのテンションが通常に戻るのを感じた。すみません……。
『それで、沙子さんと英里奈ちゃんはうまくいったの?』
おれの『なんかあったのか?』という質問はスルーして、むしろ市川から質問が飛んで来る。
「うん。あとは『おまもり』さえ音源にして渡せれば、英里奈さんのことはきっと大丈夫」
『そっかあ。『おまもり』、強い曲だもんね……』
しみじみと市川が独り言のようにつぶやく。
「強い? 優しいじゃなくて?」
『優しさももちろんあるよ。でも私はあの曲を聴くと、本当の優しさってすごく強いものなんだなって思う』
「そうかあ……」
『そうだよ? ちゃんと耳を傾けないと、本音は聴こえてこないよ?』
「いやあ、作曲したのおれなんだけどなあ……」
おれのぼやきに市川は『あはは』と笑う。
『でも、どちらにしても解決して良かった。そしたら、あとはライブに全力前進って感じかな?』
「そうなあ……。全力前進できるのが、結構直前になっちゃったけどな」
『あはは、そだね』
市川はそう少しだけ笑ってから、
『じゃあ、切るね』
と、口にした。
「え?」
別に電話を終わらせることに何の問題もないのだが、少し唐突に感じてつい素っ頓狂な声が出る。
『……ごめんね。このままだと、ダメになっちゃいそうで』
電話の向こうで困ったような笑い声が聞こえた。
「ダメって?」
『練習したり、曲作ったりとか……そういうの、ちゃんとしたいんだ。誇れる私でいたいんだ』
市川は一言一言、説明をしてくれる。
『一緒にいたいとか、もっとお話したいとか、私自身がそういう感情に溺れて、沈んで、溶けて……それで、そのうち、幻滅されちゃうかもしれないから』
「おれは、そんな……」
市川はいきなり何を言ってるんだろう。
目移りしそうとか、心変わりしそうとか、そういう風に見えてしまっているのだろうか。
『もちろん、小沼くんが浮気性だなんて思わないよ? ……ちょっとしか』
「おい」
『あはは、冗談冗談。……だけど、私ね、惰性じゃだめだなあって、最近すごく思う』
市川は決して暗くはなく、だけどしっかりと芯のある声でこちらに語りかけてくる。
『もしかしたら今日までは小沼くんは私を選んでいてくれたかもしれない。だけどそれは、ただ単純に小沼くんが私のことを好きだって思い込んでいるからそうなってるだけかもしれない、でしょ?』
おれは肯定することも否定することもできず、曖昧な相槌で続きを待つ。
『昨日までがなくても、今日が初めての日でも、ちゃんと好きだって思ってもらえるくらいじゃないと。小沼くんにそう思ってもらうことを、私自身がちゃんと自分に許せるくらいに、しっかりしてないといけない』
「そう、なのか……」
『だからね私は、私自身にこそ胸が張れるように毎日を生きていくって決めたんだ。これまで積み重ねたものって言ったら耳触りはいいけど、私は過去がなかったとしても、明日こそ自分で作りたい』
「……そうか」
おれは、ここ最近の市川の言動をふと思い出して問いかける。
「どうして、それをはっきり伝えることにしたんだ?」
『はっきりって?』
国分寺の楽器屋で、朝の通学路で、朝の市川家で。
『もし、明日の朝起きて、私のことを好きじゃないって思ったら、その時は……』
『……小沼くんがその日一番最初に会う人は私がいいなあ、と思って』
『もし昨日までがなくなってても、今日が最初の日でも、起きて最初に見た私を特別に思ってくれるかなって』
市川はここ最近、そんなことをほのかな言い回しで伝えようとしたように思う。
「なんか、ここ最近それが気になってただろ? だけど、いつも最後の最後で少しはぐらかすというか、わかりにくくしてたから」
『……気持ちを、もらったんだ』
「気持ち?」
おれは眉根をよせる。
『うん、気持ち! そのうち、話すね! 何年後になるかは分からないけど』
「ほう……?」
『というか、小沼くんだってそうだよ? 惰性で生きてちゃダメなんだよ? 私たちは最強のバンドになるんだから』
相変わらずわかりきらないおれを諌めるように、そして励ますように、市川は声を出す。
「最強、か」
なんとなく、市川のいつも言う『最強』が、市川にしては幼い単語で可笑しいな、と笑う。
『ねえ、小沼くん』
ふと、右耳からおれを呼ぶ声。
『今日のこれからたった3秒だけ、天音にくれる?』
「おう……?」
すると、ありったけの思いを込めたように、彼女はつぶやく。
『好きだよ、拓人くん』
どうしてだろう。
その言葉は、気を失うような甘さではなく、どこかほろ苦い味がした。




