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55 約束の一年間


 ——落ちている。

 それなのに、全然怖くない。


 私はこの白い奈落の先がどこなのかを本能的に悟っていた。

 気がつくと、やっぱり思った通り。いつか見た、白い空間にいた。


「……わあ……久しぶりにきた……」

「紡、こっちよ」


 振り向くとそこには、黒い髪に紫色の髪をもった、女神様がいた。


「女神様……」

「久しぶりですね」

「女神様もお変わりない様ですね」


 そう返すと、女神様は微かに驚いた様な表情を見せた。


「あらあ……。あなた、いい顔になったわね。ずうっと眉間の間に居座っていた皺が取れて、心が緩んだ様な、素敵な顔をしているわ」

「ありがとうございます」


 女神様は親戚の子供の成長を喜ぶ、親族の様な顔をしていた。


「それで……。紡。あなたはきっとこの世界で、いろんなことを知ることになったでしょう? 運命の様な、必然の様な、糸の絡まりを」

「ええ。たくさん知りました。私の……お母さんもラザンダルクに召喚された前代の聖女だったんですね」

「ええ。彼女はほとんど私のミステイクでこちらにきてもらったようなものだったけれど」

「ミステイク」


 輪郭を際立たせるように、私は一文字ずつの発音を際立たせながら言う。女神様が口にしたその単語を聞いた瞬間、先日の父親を語る王様の口から出た言葉が頭の中でリフレインした。


『君は愛する二人の間に生まれた大切な子供だ。間違いで生まれた子なんかじゃない』


 運命と呼ぶかミステイクと呼ぶかはどちらからの視点で見るかによってすっかり変わってしまう。

 けれど、私はやっぱり数奇な運命の巡り合わせで生まれたことには変わりない。


 女神様がお母さんをこちらに遣さなかったら。

 お母さんが王様と出会わなかったら。

 二人の間に恋が芽生えなかったら。


 私は確実に生まれることがなかった。


「そう思うと、あなたが生まれたのは奇跡的なことなのね!」

「奇跡……ですか」


 奇跡ってもっとキラキラしているものかと思っていた。

 だけど、現実の奇跡はもっと——押し付けがましい。

 受け取り側がそれを必要としているかなんて、どこ吹く風で、やってきてしまうんだから、それは運命と呼ぶしかない、暴力的な決定力の定めなのかもしれない。


「それはそうと、今日はあなたに聞かなくちゃいけないことがあったから、呼び出したのよ」


 聞かなくちゃいけないこと?

 私はそれがなんなのか検討がつかずに、首を傾げる。


「一年経ったけれど、あなたはどうする? 元の世界に戻る? こちらに残る? ……それともまだ少し時間があるから、もう少し考える?」

「え! でもまだ一年経ってないですよ!」


 私がこちらにきたのは春の始まり。確か三月下旬くらい。

 だけど、今は冬の始まり——十一月だから、まだ一季節分時間が残っているはずだった。


「忘れているかもしれないけれど、この世界ってあなたが前にいた世界よりも一年の長さが長いのよ。まあそれでも、期日よりは少し早いんだけど。」

「……あ。そうだった」


 女神様に指摘されて、初めてそのことに気がついた。

 最近はいつも、一年が十三ヶ月あって、一週間が八日あるこちらのカレンダーと睨めっこをしていたので、すっかり前の世界の感覚が抜けてしまっていたのだ。


「……前の世界では当たり前だったことを忘れてしまうなんて、あなたもこの世界に馴染んできたのね」


 そう言って女神様はふんわりと嬉しそうに笑った。


「今日はね。ちょっと早いんだけど、あちらの世界に残されたあなたの体の修復が終わったことを伝えにきたの」

「えっ! もう?」

「ええ。私は特に介入していないんだけれど、あちらの世界で何やら、細胞の活性化を促す新薬が開発されたみたいね。あなたは身寄りがなかったからその新薬の開発の被験者になっていたみたい」


 うへえ……。知らないうちに実験台になっていたってこと?

 知らない事実に胸糞が悪くなる。許可したのは誰なんだろう。会うたびに文句を言ってきたお母さんの弟だろうか。


 ……あんな人たちに今更会いたくないなあ。


 私のことを大切にしてくれなくてストレスがたまる人間と話すくらいだったら、チャチャやフリッツさんと話をしていた方がよっぽど有意義で、楽しいのに。


 そう思った瞬間、あ、と気づいた。


 私、この世界でたくさん、大切にしたい人を見つけられたんだって。


 私はこちらの世界でなら、ひとりぼっちなんかじゃないんだ。


「どちらでもいいのよ。あなたが好きな方を選んで」


 女神様は優しく微笑む。


「私は……」


 どちらにいっても会いたくない人も、会いたい人もいる。

 だけど心は決まっていた。


「こちらに残ろうと思います。この世界で……もう少し仲良くなりたい人がいるんです」


 そういうと、女神様は目を細めた。


「あなたはそう決めたのね」

「はい!」


 女神様は感慨深そうに私を見つめてから口を開いた。


「あなたはこちらに残って、あなたの母はあちらに戻った……。やっぱり親子だとしても選択は変わるのね。どちらの方が素晴らしいだとか、そういうものではないけれど『違う』ということは本当に面白いことだわ……。それも当たり前のことなんでしょうけど。だって、主人公が違うお話なんですもの」

「主人公……」

「そう、あなたはあなたの人生という物語の主人公なの。誰にも変えることができない、あなただけの物語。だからこそ……時にはわがままに、自分の道を押し通すことだって生きていく上では大切なことよ」


 その言葉を聞いて、私は目が覚めたような気分になった。


 思えば、異世界にきて、私は目が覚めてばっかりだ。私の周りにまとわりついていた幻想でできた不幸の靄が取り払われて、視界が広くなったからかもしれない。


 大丈夫。私はもう、大丈夫だ。


 多分、どんな困難が私の前に立ち憚ろうとも、私はそれを乗り越えていけるだろう。


「女神様! 今まで私を見守ってくれて……本当にありがとうございました!」


 私は満面の笑みで、女神様の元を去った。

 女神様は優しい目で私を見ていた。



誤字報告ありがとうございます!

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