第8話 夜の公園と俺達のブラックコーヒー
自転車で全力で坂を駆け下りる。
街の灯が遠ざかる。ハンドルを握る指先が冷たく、頬を切る風が痛い。
「わー、自転車ってこんなに速いんだね!」
後ろでは桜井さんが無邪気に笑っていた。
「はしゃぐと舌を噛むぞ!」
やがて俺はスピードを緩め、近くの公園の前でブレーキをかける。
キキィィ――
公園の街灯は二つだけ。暗闇を白く、静かに照らしている。古びたブランコが風に揺れ、金属の鎖がきぃ……と鳴った。
この時間、人の気配はまったくない。
「ここなら、あの人も追ってこないだろ」
「……うん。ありがとう、吉野くん」
俺達はベンチに腰を下ろした。俺は立ち上がり、「あ、ちょっと待ってて」と自販機でブラックコーヒーを二本買い、そのうち一本を彼女に渡す。
「ありがと!」
彼女の肩には、まだ俺のジャケットがかかっている。
夜風に揺れる髪の隙間から、黒縁の眼鏡がのぞく。ふと、微かにシャンプーの匂いがした。
学校で見る彼女と同じ眼鏡姿なのに、今は柔らかく見える。頬は夜風に少し赤く染まり、息を吐くたびに白い光がこぼれる。
――こんな表情、教室では見たことがない。
緊張のない笑顔。どこかあどけなくて、素の彼女がそこにいた。
俺達は缶のプルタブを倒し、熱いコーヒーを口にした。
「あつっ」
「だね」
少しの沈黙。
俺はジャケットが無くなって、少し寒く感じたが今は気にならなかった。
やがて彼女がぽつりと言った。
「ねぇ、私ね……ずっと、あの家が“安全な檻”だと思ってたのかも」
「安全な檻?」
「うん。お母さんは“私のため”って言うけど、あの家の空気は全部、お母さんのものなんだ。だから、どこか息苦しく感じるのかなって」
白い息が、言葉のたびに消えていく。俺は黙って聞いた。
「コンビニに行ってたのは、その空気を一瞬でも忘れたかったから」
「……桜井さんにとって夜は、僅かな自由の時間だったんだな」
「うん。それとね、最近お父さんとお母さんがずっと喧嘩してて……お父さんもあまり家に帰ってこなくなっちゃったの」
「そうなのか」
「昔はこうじゃなかったんだけどな」
「え?」
ブランコの鎖がもう一度鳴った。
「あ、なんか暗くなっちゃったね」
「いや、気にするな」
それから、少し間をおいて彼女が言った。
「ねぇ、吉野くん。どうして今日、うちに来てくれたの?」
「あ、そうそう、これ。渡そうと思って」
俺は白いイヤホンを差し出した。
「あ、これ! 失くしたと思ってたの」
「やっぱり? うちのコンビニでお客さんが拾ってくれたらしい」
「そっか……よかった。ありがとう」
彼女がにこりと笑う。
「ま、それは口実でさ。……俺、桜井さんのこと、放っておけなかったんだと思う」
「え、どうして?」
「うちのコンビニに来て、ベンチでコーヒーを飲んでた桜井さん。学校では見せない顔で、すごく楽しそうだったから」
「え……」
「俺、たぶんあの笑顔を守りたいって思ったんだ」
彼女の目が潤む。
小さく息を飲んで、うつむく。
「……ありがとう」
公園の時計の針は、夜の十一時を回っていた。
そのとき、桜井さんのスマホが震える。
――彼女の母からの着信だった。
「大丈夫か?」
「うん」
画面を見つめたまま、彼女は迷わずに通話ボタンを押す。
『澪……あなた、今どこにいるの?』
「……ごめんなさい。もうすぐ帰るよ」
『すぐ帰ってきて……お願いだから。あなたまでお母さんを置いていかないで』
音声はスピーカーではなかったが、周囲が静かなこともあって俺の耳にもはっきりと聞こえた。
彼女の母の声は、先ほどとは打って変わって怯えたように震えていた。
「うん、大丈夫。ちゃんと戻るから。……じゃあね」
通話を切った彼女は、ゆっくりと息を吐く。
「吉野くん。私、行かなきゃ。でも、少しだけ楽しかった。イヤホンもありがとう」
「ああ。またコンビニにも来れるようになるといいな」
「……うん。今度はちゃんと、お母さんと話してみる」
「ああ、もしダメでもまた俺が突撃するから」
「頼もしいね」と彼女はくすっと笑う。
ふたりはコーヒーを飲み干す。
「苦い!」
「ね!」
桜井さんは立ち上がり、俺が貸したジャケットを脱いで俺に返す。
「着てていいぞ。帰りも寒いだろ」
「ううん、大丈夫。ほら、松野さんも来たみたい」
「え?」
黒い車が公園の前に止まり、ヘッドライトが二人を照らす。
「うわ、まぶし! てかなんでこの場所がわかったんだ」
「私の携帯のGPSを追ってきたんじゃないかな」
「マジかよ……」
彼女は秘書が乗った車の方へ歩き出す。
「桜井さん」
夜の桜井澪は振り向き、微笑んだ。
「学校はもちろんだけど、また、コンビニでも待ってるぞ」
「うん」
ヘッドライトに照らされたその笑顔を、俺はきっと一生忘れない。
やがて黒い車の光が遠ざかり、公園の前の通りは再び静けさを取り戻した。
残されたのは、俺の缶コーヒーの空き缶と、ブランコの鎖がきぃ……と鳴る音だけ。
俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
「風、冷た」
頬をなでる風が、一段と強くなる。
返してもらったジャケットを再び羽織るが、背中が妙にスースーする。
「……くしゅん!」
くしゃみがひとつ、夜に響いた。
「やべ……完全に冷えたな」
遠くで街灯がひとつ、ぱちんと消える。
俺はペダルを踏み込み、静かな坂道をゆっくり下っていった。
夜の風は、少しだけ痛かった。




