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夜のコンビニと君のブラックコーヒー  作者: アキラ・ナルセ
第8章 恋のキューピッド編

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第78話 松竹梅

このお話は大河視点ではなく、松野さん視点となっております。


 場所は、桜井家の一室。

 窓の向こうには、夜空に瞬く星々が静かに広がっていた。


 ここは、春香社長の厚意で借りている自室兼・仕事部屋だ。


 僕はデュアルモニターに映る資料を見つめ、キーボードを叩いていた。

 一定のリズムで響く打鍵音だけが、部屋に満ちている。


「……ふぅ。少し疲れたな」


 だが、集中しているつもりでも、先ほど吉野くんから届いたメッセージが、頭の片隅から離れなかった。


 椅子の背にもたれ、ふとスマホに視線を落とす。

 表示されている時刻は、二十二時を過ぎている。


「それにしても……梅宮さん……」


 画面に残る、吉野くんからのメッセージ。それを再び読み返す。


《それと、これは松野さんにお伝えするかどうか迷いましたが、一応ご報告です。

 今日たまたま梅宮さんに会ったのですが、“大切な人”に会っていたそうです。》


 その一文は、胸に静かに突き刺さった。


 残酷な現実。

 けれど同時に、胸の奥のどこかで、妙な安堵が生まれるのを感じていた。


(これで……年甲斐もなく、バレンタインのチョコレートなどに、やきもきせずに済む、か)


 誰かを「好きだ」という感情を味わうのは随分と久しぶりで、恋愛というもの自体、アメリカから帰ってきてからは思い出すこともなかった。


 だが、僕の立場。

 彼女の立場。

 そして、この家での関係性――。


 諸々を考えれば、何事も起こらないほうがいい。

 それが、正解だということは誰に言われるわけでもなく理解できる。


 ――なぜなら、僕はもう“大人”だからだ。

 

 そう、自分に言い聞かせた――その時。


 コンコン――。


 静かな部屋に、ノックの音が響いた。


(……ん? こんな時間に?)


「どうぞ」


 ガチャ、と扉がわずかに開く。


「……失礼します、松野さん」


「……っ」


 顔をのぞかせたのは、同じくこの家に住み込みで働く家政婦、梅宮さんだった。


 この時間帯、彼女はいつも自室にいる。

 業務時間外に、僕の部屋を訪ねてくるなど、今まで一度もなかった。


(ど、どうしたんだ……?)


 思わず、声が少し上ずる。


「う、梅宮さん……?

 こんな時間に、どうされたんですか?」


「あ、いえ。まだ明かりがついていたので……。こんな遅くまで、お仕事ですか?」


 心配そうな視線が、まっすぐこちらに向けられる。


「ええ……。

 ですが、今やっているのは春香社長の案件ではありません。個人的な作業ですから、問題ありませんよ」


「そうですか。この後もですか?」


「はい、もう少し進めたいので」


 そして――彼女は、少し間を置いてから静かに言った。


「……あの、松野さん。

 もし、よろしければ……一息、入れませんか?」


「……え?」


 理解が追いつかず、間の抜けた声が漏れてしまった。


 そんな僕を見て、梅宮さんはやわらかく微笑んだ。



 * * *



 リビングへと降りた僕達。


 彼女に言われるがまま、キッチン前のテーブルの前の椅子に腰を下ろす。


 梅宮さんは部屋着のままキッチンへ向かい、戸棚から紙袋を取り出した。


「それは……?」


 思わず、問いかける。


「実は今日、駅前のショッピングモールに行きまして」


 ガサ、と袋の中身を取り出す音。


「……それは、コーヒーですか?」


 少し離れた場所で、梅宮さんはパッケージ入りのドリップコーヒーを手にしていた。


 パッケージには、はっきりと印字されている。


 ――“SAKURA COFFEE”。


「はい。この間、陽一様が新商品をリリースして、店舗にも置いているとおっしゃっていたので。見に行ったのですが……つい、たくさん買ってしまって」


 彼女は一度、言葉を区切り――


「よければ……

 私と一緒に、飲んでみませんか?」


「あ、ああ……。

 僕でよければ、もちろん」


 そう答えると、梅宮さんは安心したように微笑み、食器の準備を始めた。


 カチャカチャと鳴る陶器の音が、静かな夜に心地よく響く。


 その音に耳を傾けながら、僕は、沈黙を埋めるために言葉を探していた。


「駅前のモールのサクラコーヒーの店舗は、今月の頭にオープンしたばかりでしたよね?」


 何気ない雑談のつもりで、そう口にした。


「はい。お休みだったのもあって、満席でしたよ。“二人”で入ったんですけど、少し待ったくらいに大盛況でした」


 二人――。


 その言葉が、胸の奥でこだまする。


 吉野くんにも聞いていた梅宮さんの“大切な人”。

 今日、彼女が会っていた相手。


(……今なら、聞けるのか?)


 この空気、この距離、このタイミング。

 もしかすると、こんな機会はもう二度とないかもしれない。


 けれど――


 もし、真実を知ってしまったら。

 その時に傷つくのは、他でもない僕自身だ。


「……そうですか」


 結局、それ以上の言葉は続かなかった。


 梅宮さんはポットを手に取り、静かな所作でお湯をカップへと注ぐ。


 湯気がふわりと立ち上り、コーヒーの香りがゆっくりと広がっていく。


 その穏やかな時間の中で、僕は自分の胸の内だけが、少し騒がしいことに気づいていた。


 やがて、僕の目の前にコーヒーが置かれた。


「さ、どうぞ。松野さんはブラックでしたよね」


「ええ。ありがとうございます」


 湯気の立つカップを受け取りながら、向かいを見ると、梅宮さんも席に腰を下ろしていた。


「梅宮さんは、このあとお休みになるんですよね。

 遅い時間にコーヒーを飲んでも、大丈夫なんですか?」


「大丈夫です。私のはカフェインレスのものですので」


「それなら良かった」


 そう言って、僕はカップを持ち上げる。


「では、いただきます」

「はい」


 一口、口に含む。


 ふわりと鼻に抜ける香り。

 苦味は穏やかで、それでいて芯がある。


「……とてもいい香りですね。味も美味しい。かなり、陽一さんのコーヒーの風味を再現できていると思います」


 そう伝えると、梅宮さんは少しほっとしたように微笑んだ。


 そして、彼女も自分のカップに口をつけてから言う。


「陽一様も、この商品の開発にはかなり苦労されたと仰ってましたから」


 この家で働く者として、そして“あのコーヒー”をよく知る人としての言葉。


「そういえば……」

 ふと、梅宮さんが思い出したように言った。


「今日は、サクラコーヒーを出たあとに吉野さんに久しぶりにお会いしましたよ」


「え、それは奇遇ですね」


 もちろん、僕はそれを知っている。

 だが、悟られないよう、できるだけ自然な調子で返した。


「はい。しかも、澪お嬢様とご一緒だったんです」


「え……! 澪さんも?」


 それは知らなかった。

 思わず、素の反応が声に出てしまう。


「なんでも吉野さんからのお誘いで、

 ご友人たちに渡すホワイトデーのお返しを、一緒に選んでほしいとのことだったようです」


 そう語る梅宮さんの表情は、先ほどまでの落ち着いたそれとは少し違っていた。

 どこか柔らかく、年相応の――いや、それ以上に無邪気な微笑み。


「いいですよね。あのお年頃の恋愛って。なんというか……とても純粋で」


「……あの二人は、もうお付き合いをしているんですか?」


 気づけば、そんなことを聞いていた。


「いえ。そういうわけではないようですけど……」


 梅宮さんは一度言葉を切り、それから、確信めいた口調で続けた。


「でも、きっと時間の問題だと思いますよ」


「……そういうものですか?」


「はい。きっと、そういうものです」


 あまりにも迷いのない言い方に、僕は苦笑しながら尋ねた。


「梅宮さんが、そこまで言い切るなんて珍しいですね。何か根拠でもあるんですか?」


「いいえ」


 彼女は、カップを両手で包んだまま、さらりと言った。


「勘です。女の」


 彼女は言い放った。


「な、なるほど」


「あ、せっかくなので……お菓子でも出しますね」


 そう言って、梅宮さんは立ち上がり、キッチンへ向かった。

 冷蔵庫を開ける音、引き出しの擦れる音。

 やがて、小さな白い皿を手に戻ってくる。


 皿の上には、こんがりと焼き色のついたクッキーが数枚並んでいた。


「これは……クッキーですか?」


「ええ。今日、お会いした人からのホワイトデーのお返しなんです」


 その言葉に、僕は一瞬だけ言葉を探した。


「ホワイトデーというと……まだ、バレンタインが終わったばかりですよね。ずいぶん、気が早いようにも思えますが……」


 梅宮さんは、クッキーに視線を落としたまま、少しだけ微笑んだ。


「はい。その方は、来月にはお仕事の関係で、少し離れた場所へ住まいを移すそうで……。だから、今のうちに、ということみたいです」


「その方は……梅宮さんにとって、ずいぶんと大切な人なんですね――」


 そう言いながら、僕は何気なくクッキーを一口かじった。


「こ……これは! 美味しいですね!」

 思わず声のトーンが上がってしまう。

「それに……多分ですが、これ、市販品ではないですよね?」


 甘さの奥に、手作り特有のやわらかさがある。バターの香りも強すぎず、素材の輪郭がはっきりしている。


 その反応に、梅宮さんもぱっと顔を明るくして言った。


「で、ですよね!? やっぱり竹田さんはすごいなぁ」


 ――竹田さん。


 それが、彼女にとっての“大切な人”の名前。


「竹田さん、ですか」


「あ……すみません。つい」

 梅宮さんは少し照れたように笑った。

「はい。このクッキーを作ってくださった方のお名前です」


「どんな方、なんですか?」


 気づけば、僕は一歩踏み込んでいた。

 勇気を振り絞った、というより――


 純粋に知りたくなったのだ。

 こんなクッキーを作る男が、どんな人物なのかを。


「竹田さんは……私がこの仕事に続けるきっかけになった方です」


 梅宮さんは、カップを両手で包みながら語り出す。


「当時は、私、何をやっても上手くいかなくて……

 もう辞めようかって、本気で思っていた時期があったんです」


「……そうだったんですか」


「はい。でも、その時に竹田さんが、仕事の基礎から、心構えから……本当に全部、叩き込んでくださいました」


 その声には、尊敬と感謝が滲んでいた。


「今の私があるのは、あの方のおかげです。私は……ただ憧れて、必死に背中を追いかけてきただけで」


「驚きました。正直、梅宮さんほど何でもできる方にも、そんな時期があったとは……」


「とんでもないです」

 梅宮さんは、静かに首を振る。

「私は、あの方に比べたら、まだまだです。それでも……あの人に認めてもらえるようになりたくて、ここまで来ました」


 そう語る彼女の表情は、幸せに満ちていた。


(なるほど……)


 胸の奥で、すとん、と腑に落ちる。


 これは少なくとも、僕が割って入れる類のものではない。


 憧れ。

 恩。

 そして、人生を変えてくれた存在への、深い敬意。


 ――つけ入る隙など、最初からなかった。


 だが同時に、

 不思議と胸は穏やかだった。


 失恋に似ていて、でもどこか、納得のいく結末。


 僕は、残りのクッキーをそっと口に運んだ。


 その優しい甘さが、今の気持ちには、よく合っていた。




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