第71話 桜井さんが俺に伝えたかったこと
桜井さんが取り出した手作りのチョコレート。
「……そんなの、俺がもらっちゃっていいのか?」
「うん」
彼女は不安そうに、それでもしっかりとうなずいた。
俺はタッパーを両手で受け取る。
指先に伝わる、ほんのりした温かさ。
「せっかくだし……食べてみていいか?」
「う、うん……!」
彼女はぎこちなく両手を膝の上で握り、
期待と緊張をまぜたような瞳で俺を見つめている。
カチッ。
タッパーのフタを外す。
ふわっと甘い香りが広がった。
ミルクチョコの柔らかい香りに、ほのかなカカオのビター。それに、バターと砂糖が溶け合った“手作りの匂い”。
まぎれもない――家で誰かが作ったチョコの匂いだった。
(……すげぇな、これ)
俺はその中から、
ひときわ小さめで、白い線がくるんと描かれた丸いチョコを選ぶ。
形はいびつで、プロのものとは全然違う。
でも、その不器用な感じが胸に刺さる。
「じゃあ……いただきます」
口に入れた瞬間――
ほろり、と。
外側のチョコが思ったより薄く、やわらかく崩れた。
舌の上でゆっくり溶けるミルクチョコレート。
そこに混ざるのは、ほのかなビターと……少しだけザラッとした舌触り。
甘さは強いけど、不思議とくどくない。
ミルクのまろやかさとカカオの深みが一緒になって――
(……うまい)
「……どう、かな?」
俺は、ひと呼吸おいてから言った。
「……これ、すげぇうまいよ」
「ほ、ほんと!? 本当に……?」
桜井さんの目が一瞬で輝く。
胸のところでぎゅっと手を握りしめて、今にも跳ねそうだった。
「ああ。なんて言うか……ちゃんと“手作りの味”がしてさ。甘さもいいし、口に残らなくて……なんか、安心する味。バイトの後だからマジで染み渡るよ!」
「よかったぁ……! ほんと、よかった……」
桜井さんの肩から力が抜けるのが分かった。
ほっとした笑顔が、コンビニの光に照らされてやわらかく揺れる。
俺はもう一粒、今度はハート型のチョコをつまみながら言った。
「そうか、学校じゃあ手作りのチョコレートは持参禁止だもんな。
でも……まさか桜井さんから、こうやってもらえるとは思わなかったな」
「……」
桜井さんは、ぎゅっと膝の上で手を握りしめたまま、言葉を返せずにいる。
俺は少し照れをごまかすみたいに、手元のチョコを見つめながら言った。
「俺さ、最近知ったんだよ。チョコって、種類がめちゃくちゃあるって。逆チョコとか義理チョコ、友チョコ、マイチョコ……」
「うん……」
「ファミチョコに、世話チョコに……あとは推しチョコだっけ?」
「そうだね。今は色々あるよね」
「そんで、これはあれだな。
友チョコか義理――」
「……本命」
「え?」
聞き間違いかと思った。
でも桜井さんは、目をそらさずに言った。
「本命チョコ、だよ。大河くん」
ドクン。
その瞬間、心臓が強く跳ねた。
「い、今なんて……?」
「だから、本命だよ」
夜風も、小さく聞こえていた店内のBGMも、一瞬で遠くに消えたように感じた。
言葉の意味を理解した瞬間、頭が真っ白になった。
「じょ、冗談だよな!?
いやー桜井さんも俺に冗談言えるくらい仲良くなったってことで……」
必死に笑おうとしたが、声がうまく出ない。
だけど彼女は、静かに首を横に振った。
「冗談じゃないよ」
目はまっすぐ。
逃げる場所もごまかす余地もない。
「……私、大河くんのことが好きだもん」
「え……」
その言葉は、やわらかいのに、逃げ場がないほど真っ直ぐで。
タッパーの中のチョコみたいに、不器用で、なのに温かくて。
現実感が追いつくまで、数秒かかった。
「さ、桜井さん……」
「ずっと言いたかった。今日じゃないとダメだと思ったの」
彼女の肩がわずかに震えている。
それでも視線だけは逸らさなかった。
「大河くんが、前に進もうとしてるのを見たから」
息が吸えないくらい胸が詰まった。
渚先輩への想いに区切りをつけたその日に――
こんな言葉を聞くなんて、想像もしていなかったから。
ただ一つだけ確かなのは、この告白は、本気で俺に向いている。
「それにね、大河くんが勇気を出して渚さんに想いを伝えた日に、私も言わなきゃって――そう決めてたんだ」
「あ、その……おれ……」
言葉が出ない。
喉の奥で引っかかって、形にならない。
そんな俺を前にして、桜井さんはすっと立ち上がった。
「あー……すっきりした!」
「お、おいっ!」
彼女は肩に鞄をかけると、夜の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
さっきまで何かを必死に押し込めていたような表情は消え、まるで重い荷物を全部降ろした人みたいに、晴れやかだった。
「今の……本気、なんだよな?」
俺がようやく絞り出すように言うと――
「うん!」
迷いも、揺れも、一切なかった。
ただ素直で、真っすぐで、強い。
俺のほうは――
「……」
再び、沈黙するしかなかった。
胸の奥が熱く、冷たく、痛く、嬉しく、混乱して……感情の出口が見つからない。
さっきまで普通に接していた桜井さんが、今は大切な何かを差し出してくれているように見えて―― 視線の置き場すら困る。
さっきまで当たり前だった世界の見え方が、一瞬にして変わってしまった気がした。
桜井さんは、言葉を失ったまま固まっている俺の顔を、そっとのぞき込んだ。
「大河くん」
「え?」
「大丈夫。わかってるよ」
彼女の声は、とても柔らかかった。
責めもしないし、急かしもしない。
ただ、俺の心の揺れをそのまま受け止めるような声だった。
「今の大河くんは……色々、気持ちの整理が追いついてないよね」
「……ああ。ごめん」
「ううん。いいの。
私がどうしても伝えたかっただけだから」
桜井さんは、座っている俺の前にすっと立つ。
街灯に照らされた横顔は、泣きそうにも、笑っているようにも見える――
そのどちらにも当てはまらない、不思議な表情だった。
「これからも……私と友達でいてくれますか?」
たった一言。
“友達”という言葉が、
あんなにあたたかくて
あんなに切なく響くものだなんて――
俺は知らなかった。
この表情を……俺は絶対に忘れられる気がしない。
考えるまでもなかった。
「そ、そんなの当たり前だろ!!」
言い終えるより早く、桜井さんは小さく笑った。
「ふふ」
その笑顔は――
ただ俺にだけ向けられた、ひとりの“女の子”の飛び切りの笑顔だった。




