第67話 明日はバレンタインデー
冷蔵庫の扉を開けると、ひんやりした空気が顔に触れた。
中には、無数に積まれた板チョコ。
「一枚くらいならわかんないよな」
――その中の一枚に、俺はそっと手を伸ばした。
甘いものはそんなに得意じゃないけど、チョコレートだけは別なのだ。
指先がチョコの端に触れた、その瞬間――
「お兄ちゃーん。なーにしてるのかなー?」
背後から、ねっとりとした声。
……げ。
「み、瑞希か!? いや、別に! なにもしてないぞ!」
反射的にチョコの箱を後ろに隠す。
時刻は午前一時過ぎ。
俺は勉強の合間も休憩にキッチンへ来ていたところだった。
なのに――
「ふーん? 今、そのチョコレート食べようとしてたでしょ」
「な、なんのことやら。知らんけど?」
妹・瑞希はジト目で俺を見ながら、冷蔵庫の灯りでほの青く光る台所へずいっと入り込んでくる。
「まったく。お兄ちゃんってば、“昔っから”チョコレートには目がないんだから」
「一枚くらいいいじゃないか。こんなにあるんだし」
「だーめ。それはバレンタイン用で私が使うんだから!」
瑞希は俺の手から板チョコを奪還すると、冷蔵庫に戻して扉をパンッと閉じた。
「ちぇ……。それにしても、こんなに使うのか? この量」
「当たり前じゃない! クラスの子とか、部活の子とかにもあげるんだから!」
「その……お、男にもか……?」
兄としての責任感というやつが、不意に胸の奥から湧き上がる。
瑞希は、めんどくさそうにじと目になった。
「あのねぇ、お兄ちゃん。今時そんなこと気にしてるの、お兄ちゃんくらいだよ? 今は友チョコとかファミチョコとか色々あるんだから」
「そ、それくらい知ってるけどさ……」
口では反論しつつも、瑞希の言う通り最近のチョコ文化はややこしい。
「まったく。お兄ちゃんこそ、今年こそちゃんと学校でもらってきてよね?」
「なんだよ急に」
「去年なんか、アルバイト先のコンビニの人からの義理チョコばっかりだったし。妹として情けないよ」
「う、うるせーな……」
ぐうの音も出ない。
去年の俺は、勉強とバイトに全振りしてて、クラスに友達だってほとんどいなかった。
仲が良かったのも橘くらいだったし。
瑞希は、ふと思い出したように口を開いた。
「……あ、でも澪さんなら義理チョコくらいくれるんじゃない?」
「……さぁな。そんな皮算用なんてするもんじゃないぞ」
本当は言われて少し気になったけど、妹の前では絶対に言えない。
俺は咳払いし、冷蔵庫の扉を軽く押し閉めた。
「……チョコレートには手をつけないから。瑞希、お前も早く寝ろ」
「はーい」
瑞希はスリッパをペタペタ鳴らして自室へ戻っていった。
残された俺は、冷蔵庫の白い灯りだけが残る台所でため息を一つ。
「……桜井さんね」
その名前をつぶやいた自分に、少しだけ驚いていた。
だが、今はそんなことよりも――
(今度こそ一枚くらい……)
カチッ。
リビングの明かりが灯る。
――その瞬間。
「……お兄ちゃん」
背後から、氷点下みたいな声。
「……すんません」
* * *
翌日――
今日は二月十三日。
バレンタインデーまで、あと一日。
昼休みの生徒会室では、珍しく“緊急ミーティング”という名目で俺たち四人が集められていた。
「それで汐乃。今日はなんの用で集められたんだ?」
俺がそう問いかけると、すかさず桐崎さんが眉をひそめる。
「ちょっと吉野くん。会長に向かって呼び捨ては――」
しかし、俺が返す前に霞汐乃・生徒会長が静かに手を上げた。
「桐崎書記。構わん。――私が許した」
「……っ、わかりました」
(助かった……)
相変わらず、この学校では霞汐乃は“別格扱い”だ。
容姿、頭脳、生徒からの支持率。どれを取っても突出してるから仕方ないのかもしれない――が。
(……完璧、ではないよな)
少なくとも、俺の中で“完璧の象徴”は渚先輩だった。
比較対象が極端すぎるのかもしれないが、霞汐乃という人間は、俺から見ると時々、不器用で、不思議と隙がある。
それは俺の中で、誰かと似てて重なるのだ。
――そんなことをぼんやり考えていた時だった。
(ん?)
桜井さんの表情が、妙に硬いように見えた。
目線を落とし、不自然に胸の前で指を組んでいる。
いつもならにこっと笑うタイミングなのに、それがない。
(どうした……? 体調でも悪いのか……?)
問いかけようとして、結局やめた。
そんな中、霞汐乃がスッと立ち上がる。
「今日、皆を集めた理由は一つだ」
凛とした声が室内に響く。
皆がごくりと息をのんだ。
昼休みの生徒会室に、霞汐乃の凛とした声が静かに落ちる。
「――明日のバレンタインデーについてだ」
「え? バレンタインデー?」
思わず聞き返したのは俺だ。
「そうだ。今日の帰りのホームルームのあとで、全校集会が急遽予定されている。その理由もまた、バレンタインデーに関する通達だ」
「何かあったんですか?」
桜井さんが心配そうに首をかしげる。
汐乃は一度息を吸い込み、きっぱりと言った。
「昨年、生徒が手作りのチョコレートを学校に持ち込んだことが、今年になって一部から衛生面の問題が指摘されたらしい。これがなかなか大きな問題になったようでな。先生方は今年、より厳格に対処したいらしい」
「なるほど……」
稲葉が静かにうなずいた。
「確かに、それで食中毒などの問題が起きては、学校側も責任問題になりますね。とはいえ……毎年クラスで楽しみにしている生徒も多いと聞きますが」
「ああ。その通りだ」
汐乃は腕を組み、淡々と言葉を続けた。
「昨年の生徒会執行部でも、生徒の意見をまとめる過程で教師側と少々対立があったようだ」
(そうだったのか……まぁ、生徒からしたら、ほっといてくれよとはなるか)
勉強とバイトの虫だった俺は、去年の事情は知らなかった。
「その折衝の結果、皆も知っているだろうが、昨年は“放課後の時間に限って校内での受け渡しを許可する”という妥協案が取られた。だが、今年は昨年の騒動を踏まえ――」
汐乃は一拍置き、しっかりと俺たち四人の顔を見渡した。
「“個人で加工していない市販品のチョコレートに限り、持ち込みを許可する”という方針に決まったようだ」
「市販品限定……」
桜井さんが小さくつぶやく。
「つまり、手作りは完全禁止ってことか」
「そうだ。今年は学校全体での統一ルールとなる。今後、我々生徒会にも“相談”や“反発”が来るかもしれない。生徒側の意見もわかるが、あくまで学びの場としての規律を保つべきだという側の意図――どちらも軽視できない問題だ」
「なるほどな。生徒側だけで見てたら、ただの楽しいイベントでしかないけど……こういう立場に立つと、色んな視点があるんだな」
思わず漏れた俺の言葉に、汐乃は軽くうなずいた。
「そうだ。生徒会としては“生徒”という側に立つだけでは済まない。私たちは中立であり、調整役でもある。生徒の楽しみ、教師の安全管理、保護者からの信頼……そのどれもを天秤にかけて、最適な指針を示さなければならない」
言葉には力があったが、どこか静かで重みがある。
「中立って……難しいな」
「簡単ではない。だが、生徒会とは本来そうあるべきなんだ。誰かの味方をするのでなく、すべての視点を俯瞰して考えること。私たちはそのために存在している」
予定通り、ホームルーム後に開かれた全校集会では――
バレンタインデーの取り扱いについての説明が行われた。
体育館のステージに立った教師が、無機質な声で淡々と注意事項を読み上げる。当然、生徒はややざわついた。
だが、そこから一歩前に進み、マイクを受け取ったのは――霞汐乃だった。
それだけで生徒たちのざわめきが、少しだけ静まる。
「先ほどの説明にもあったように、今年は市販品のみに限り持参を許可するという結論になりました。ですが――これは“当たり前の自由”ではありません。皆の行動が正しくあってこそ、来年以降も続けられる自由です」
汐乃の視線が、体育館全体をゆっくりと横断する。
「私たちが守らなければならないのは、個人の楽しみだけではありません。学校全体の安全、そして互いを思いやる心です。どうか理解してほしい。この決定は、生徒だけのものでも、学校だけのものでもなく――その両方の視点を見つめて出されたものだということを」
ざわついていた空気が、いつの間にか澄んでいた。
教師の説明では絶対に達成できなかった“納得”が、体育館の隅々にまで行き届いていくのが分かる。
(……スゲぇな)
言葉だけではない。普段の彼女の一挙手一投足が生み出す言葉の重み。
俺は思わず小さく息をのむ。
中立の立場から、理由を語り、責任を促し、未来へとつなぐ言葉に変換して伝える。
それを、同じ高校生である彼女がやってのけている。
俺には到底できないことだった。
でも――
(俺には俺にできる形で汐乃に力を貸さねぇとな。店長ならそう言うだろう)




