第63話 みーつけた!
三階の校舎。
予想通り、今月から自由登校になった三年生の姿はもうどこにもなく、廊下は驚くほど静かだった。
二月の十八時過ぎはもう薄暗い。
外はすでに夜に近く、窓の向こうの空だけが、わずかに青を残している。
俺たちは三階にある特別教室、廊下、トイレの個室まで――明かりを順番に灯しながら、隅々まで探していった。
そして全部で七クラス分ある三年生の生徒達の教室。
カーテンの裏。
掃除用ロッカーの中。
教卓の影。
人が隠れられそうなスペースたち。
ひとつ、ひとつ、確認していく。
だが――見つからない。
「ふぅ……。いないですね。三階というのは、核心をついたと思ったんですけどね……」
稲葉が生徒机の椅子に座り込み、大きく息をついた。
普段は冷静沈着な彼の額に、微かに疲労の汗がにじんでいる。
「だな。さすがに、あの会長は一筋縄ではいかないな」
俺も隣に立ちながら同意する。
「当たり前よ。相手は会長よ?」
桐崎さんも疲労を隠し切れない表情で言う。
時計を見ると、すでに十八時二十分を過ぎていた。
焦りが胸の奥をじわじわと締めつける。
「最後は二階かしら。でも私たちはそもそも二階の廊下で、会長が指定した十分間を待っていたんだから……。もし二階に来ていたとしたら、私たちはもちろん、生徒や先生が一人くらい見てるはずよね」
桐崎さんの指摘に、俺たちは無言でうなずいた。
確かにその通りだ。
二階にはまだ活動中の部活生も補習中の生徒や先生もいた。
人目を避けるなんて不可能に近い。
そんな中で――桜井さんは、俺たちから少し離れ、ベランダで深呼吸をしていた。
冷たい夜風が彼女の髪を揺らしている。
俺はその後ろ姿に、コンビニでの彼女の後ろ姿が重なって見えた。
俺も同じようにベランダへ歩み寄り、桜井さんの隣に立つ。
冷たい手すりに腕をかけ、彼女の横顔へそっと声をかけた。
「寒くないか? こんなところに出たりして」
「あ、うん……。でもね、ちょっと気分転換したほうがいいかなーって思って」
「なるほどな。確かにそうかも。俺たち、だいぶ焦ってるし……疲れも出てきてるしな」
桜井さんは、静かにうなずいた。
夜風が前髪をふわりと揺らし、教室から漏れる光がその頬を淡く照らす。
俺も隣で同じように空を見上げる。
――すっかり暗くなった二月の空。
わずかに青を残すその色は、一日の終わりを静かに告げるようだった。
「……ふぅ」
二人で並んで深呼吸をする。
冷えた空気が肺に入って、こわばっていた気持ちがほんの少しほどけていくのを感じた。
その沈黙は、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、頭の中のぐちゃぐちゃしたものが整理されていくような心地よさがあった。
「なんか……私たち、こうして並んでるとさ。思い出しちゃうね」
桜井さんが少しだけ照れたように笑う。
――もちろん、俺も同じことを考えていた。
「やっぱり桜井さんも思った?」
「うん。だって……ね?」
言葉にしなくてもわかる。
俺たちの脳裏には、同じコンビニのベンチの光景が浮かんでいた。
寒い夜に、二人で肩を並べて飲んだブラックコーヒーの味。
あの時と同じ風が、今も頬をなでていた。
そんな俺たちの空気を壊すように、教室の扉がガラッと開く。
「うわ、さむっ!」
桐崎さんが両腕を抱えながらベランダに出てくる。少し遅れて稲葉も顔を出した。
「ちょっと二人とも、冷えるから早く中に入りなよ。こんな寒いところに会長が隠れてるわけないでしょ。風邪ひくわよ」
その言葉に――俺は、ふと横を向いた。
「……桐崎さん、今なんて?」
「え? だから、こんな寒いところに会長が隠れるわけ――」
どくん、と胸の奥が跳ねた。
“この寒いところに、隠れるわけない”。
確かにそうだ。
だけど。
この校舎のベランダは、隣の教室との境目に仕切りがなく、そのまま奥へ奥へとつながっている。
ベランダ沿いに歩いていけば、端の非常階段にそのまま出られる構造だ。
――そこで、俺の頭にひらめきが走った。
「桜井さん……もしかしてこれ……」
「うん! 私も今なんとなくわかった!」
俺たちの声につられ、桐崎さんと稲葉がベランダへ出てくる。
「わかったって、どういうことよ?」
桐崎さんが眉を寄せる。
「つまり――俺たちの推理は、ここまでは全部合ってるってことだよ」
「会長がこの三階に来た、ということがですか?」
稲葉が問う。
「ああ。霞さんは間違いなくこの階に来た。でも、あくまで経由する必要があっただけ。霞さんは一階にも三階にもいない。ということは残るは二階だけだ」
「ええ……ですが二階に隠れようとすれば、誰かには見つかってしまうはずで――」
「そう。でも、その“常識”を崩せるルートがここにある」
俺はベランダの先、長く続く通路と、その先の非常階段を指差した。
「そう――霞さんは、この階から非常階段で二階に降りて、このベランダの通路を使ったんだよ。誰にも見られないこの通路を渡って、“ある場所”に隠れるために!」
静寂の中、その言葉だけが、確かな手応えを持って響いた。
桐崎さんがじれったそうに俺に聞く。
「それで、結局のところ会長はどこに行ったっていうのよ? 時間がないんだから勿体ぶらずに早く言いなさいよ」
「まだわからないか? 今、落ち着いて考えれば、あの会長が行くところなんて一つしかない!」
* * *
私は薄暗くなった部屋で静かに時計を見る。
壁掛けの時計の針は、十八時二十五分を指していた。
「……ふ。やはり、流石に間に合わないか」
しかし、それは“失望”ではなかった。
もとより、勝敗などどうでもいい。
私が求めていたのは――結果の一点ではなく、“過程の中での変化”だ。
薄い湯気をあげるブラックコーヒーに、角砂糖を一つ落とした。
コトン。
白いそれが沈み、しゅわ、と音を立てながら溶けていく。
「彼らに、ほんの少しでも変化があれば……それでいい」
私は静かにティーカップを持ち上げる。
カップに唇を寄せようとした、その瞬間――
部屋の明かりが点灯する。
「――みーつけた!」
勢いよく扉が開いていた。
声の主は、吉野大河。
続いて桐崎杏奈、稲葉澄仁、そして桜井澪の姿が見える。
その光景を見て、私は小さく息をついた。
(なるほど。思ったより早い。やはり、吉野大河――君は面白い)
四人の目には達成感と、わずかな疲労。そして……確かに“何か”が宿っていた。
そう。
ここは――生徒会室。
私がこの状況で隠れるには最も“不自然な場所”。
あえてだれもありえないと思わせるために選んだ場所だった。
私は、やや甘いコーヒーを一口含んだ。




