第55話 夜のコンビニと君からのブラックコーヒー
俺は横目で彼女の横顔を見つめていた。
今ならわかる気がする。
昔の彼女が、この場所に逃げてきていた理由が。
俺たちは高校生という、子どもでも大人でもない半端な存在。
学校でも家庭でもない「どちらでもない場所」で、ほんの少しだけ呼吸ができる場所。
それが――ここだったんだろう。
上手く言葉にはできないけど、多分そういうことなのだ。
やがて、隣で桜井澪のまつ毛がゆっくり震えた。
白いイヤホンをそっと外し、彼女はゆるやかに瞳を開く。
「……やっぱり来てくれた」
薄い吐息。夜のコンビニの前で揺れる小さな声。
そして、嬉しそうな笑顔。
「悪い、驚かせたか?」
「ううん。思った通りだなって思って」
「え?」
「私があの時みたいにここに居たら、きっと大河くんは来てくれるんじゃないかって」
「いや、俺はいつもここに居るだろ?」
「ううん。今日の大河くんは……心がそこに居なかったよ」
その言葉に、胸の奥がひっそり揺れた。
「……まぁ、そうかもな」
彼女はクスリと笑うと、レジ袋の中に手を入れた。
プラスチックが擦れる音がして、彼女はブラックコーヒーの缶を一本取り出した。
そして、少しだけ胸の前で揺らし、俺に差し出す。
「くれるのか?」
「一緒に飲も。寒いでしょ?」
一瞬だけ迷ったが、俺はその缶を指先で受け取った。
缶の淵の銀色が、コンビニの灯りを反射してやわらかく光る。
「じゃあ、もらうよ。ありがとな」
プシュ、と小気味いい音が夜に弾ける。
俺達は缶と缶を軽く合わせて言う。
「乾杯」
ふたりの白い息と透明な声が混ざる。
夜の風は冷たくて、ベンチは相変わらず硬い。
でも――どういうわけか、ここは、この世界が、前よりずっと温かい場所に思えた。
俺たちは缶を傾け、それぞれ一口ずつ飲んだ。
「どう?」
彼女が少し身を寄せて、俺の横顔をのぞき込む。
苦い。
この味。
――ついこの前、このコンビニの裏手の赤いベンチで飲んだ、ブラックコーヒーと同じ苦み。
でも、不思議だ。
あの時より、ずっと暖かい。
「うん。美味しい。何より……暖かい」
「そう。良かった」
俺は缶をひと息置いて言った。
「やっぱ、“桜井さん”には適わないな」
「あーっ! 大河くん、呼び方が前に戻ってるよ!」
ぷくっと頬をふくらませる桜井さん。
どうも“さん付け”は不服らしい。
「いや、やっぱ桜井さんは桜井さんのほうが呼びやすいよ」
苦笑しながら、再びブラックコーヒーを口に運ぶ。
「もー。せっかく“大河くんとはちゃんと友達になれた”って思ってたのに!」
むくれたように目をそらす桜井さん。
それが妙に可笑しくて、俺もつい笑ってしまった。
「桜井さんは友達だよ。もうずっと前から。そんで、これからも」
言った瞬間、彼女の表情が一瞬だけ曇った。
ほんの、ほんの一秒だけ。
だけどすぐに、穏やかでやわらかな笑みに戻る。
「……うん。良かった」
「良かった? そんなに?」
「あ、違うの。そういう意味じゃなくて……」
彼女は少しうつむき、指で缶のふちをなぞりながら続けた。
「大河くんが……ちゃんと笑ってくれてるのが、良かったって思ったの」
胸の奥が、ふっと軽くなる。
ああ。
そうか。
今日ここに来てくれた理由――なんとなくわかった。
「……なるほどな。コテンパンに振られた俺を、心配してくれたわけね」
「そ、そんな! 気を悪くしたらごめんね!」
「いや、そんなことはぜんぜんないけどさ」
むしろ有難い。
本当に。
でも彼女はまっすぐにこちらを見て、静かな声で言った。
「好きな人に告白するって……すごい勇気だって、今の私にはわかるよ。
本当に……大河くん、すごいと思う」
その声音は、優しさだけじゃなかった。
どこか、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「まぁ、あれからずっと辛かったし……なんなら今でもまだ引きずってる。けど」
「けど?」
桜井さんが、ダウンジャケットの袖を少し握りながら俺の言葉を待つ。
「うん、まぁ……そうだな。告白したことを後悔はしないよ。絶対に。だから、その……俺に踏ん切りをつける決心をさせてくれた桜井さんには感謝してる。ありがとな」
桜井さんは、申し訳なさそうに眉を下げながらも――ゆっくり、柔らかく笑った。
「……どういたしまして」
俺たちは同時に缶を口元に傾けた。
金属の縁に触れる冷たさとは裏腹に、コーヒーはやっぱり暖かかった。
「ねぇ、大河くん」
「ん?」
「明日からは……立ち直れそう?」
「んー……」
「そこ、“うん”じゃないんだ?」
「努力はする。だけど、時間は必要かもな」
「しょうがないよね。でも――」
彼女は胸の前で軽く拳を握って、ふわりと笑った。
「何かあったら、私がまたここでお話聞いてあげるから。安心して?」
「ったく……俺はそんな子供じゃないっての」
そう言った俺をまっすぐ見ていた彼女が、少し考えるように首を傾けてから言った。
「うーん。大河くんって、結構子供っぽいところあるけどなあ」
「え!? どこがだよ!?」
彼女はゆったりと肩をすくめ、
「そういうとこ」
と、まったく悪びれずに言い切る。
俺達の背後から漏れるコンビニ内の明かりが、彼女の大きな瞳に反射して煌めく。
その後も、しばらくどうでもいい言い合いが続いた。
周りから見れば何の面白味もない、ただの他愛のないやりとり。
――でも。
そんな他愛なさが、
今の俺には、なによりも強い特効薬になっていた。
冷たい夜風の中で、少しずつ胸の痛みが薄れていくのがわかる。
これは俺にとって初めての失恋。
この痛みはいつか消えるのだろうか。
そして、いつかまた、誰かを好きになれる日がくるのだろうか。
この時の俺にはあんな未来がくるとは思ってもいない。




