第54話 ブラックコーヒーがまだちょっと似合わないあの子
――キーンコーンカーンコーン。
放課後のチャイムが鳴り終わると、俺はすぐに学校を出た。
向かう先は、通っている高校からほど近いコンビニエンスストアだ。
キキィ――ッ。
銀色のところどころ傷の入った自転車のブレーキ音が静かな住宅街に響く。俺はそのまま店の裏口へ回るのをやめて正面の自動ドアをくぐり抜けた。
~♪
(いつもと同じだ)
いつものコンビニの風景。
* * *
自動ドアが開くたびに流れる軽快な電子音。
~♪
何千回聞いたのかもうわからない、店内BGMのヒットソングメドレーが今日も変わらず耳に流れ込んでくる。
「いらっしゃいませ」
「たばこの百八十番ちょうだい」
「あ、はい。百八十番ですね」
いつもこの時間に来る常連のおじさん。
注文も動きも、全部いつも通り。
変わらない日常。
変わらない世界。
「元気がないねぇ、吉野くん」
「え? そうですか?」
背後から突然声をかけられて、ゆっくりと振り返る。
もちろん、これもいつものこと。
「よ、吉野くんが僕に驚いてくれない……か、悲しい!!」
やたら肩を落として見せた店長は、わざとらしいため息をつきながらバックヤードへ消えていった。
(な、なんだったんだ……)
店内はいつもと同じ光景のはずなのに、どこか色あせて見える。
たった一つだけ変わっただけなのに。
そんなの、わかってる。
今日ここに来たとき、まず目に入ったのは――
ロッカーの端。そこに貼られていたはずの“あの人の名前のテプラテープ”が消えていたこと。
タイムカードがずらりと並んだ棚では、
一枚分だけぽっかり空いた、不自然なスペース。
そして連絡帳を開けば、
B5ノートの1ページを丸ごと使って書かれた――
あの人の、あの字のメッセージ。
たった一人。
そう、たった一人いなくなっただけなのに。
どうしてこんなに世界が変わってしまったんだろう。
指先でそのページをそっとなぞる。
『吉野くん、だっけ? 君、ばかだよねー』
……なんだこれ。
ああ、そうか。
俺が初めてここで、あの人に出会ったときに言われた言葉だ。
あの時の俺はどうしたんだっけ、あまり覚えてないな。
そんなことを思い出しながら、俺はそっとページを閉じて、いつものようにタイムカードを切ったんだ。
* * *
やがて俺の退勤時間が迫ったころだった。
夜が深まるにつれて青白い蛍光灯の下、バーコードの「ピッ」という音と自動ドアのチャイムが、夜のリズムのように繰り返される。
~♪
いつものように品出しを終えてレジに戻ると、自動ドアの軽快な音が鳴った。
「いらっしゃ――」
入ってきたのは、ふわりとした今どきの空気をまとった女の子だった。グレーのスウェットのセットアップの上にピンクのダウンジャケット。足元は少しだけ踵が黒くなった白いスニーカー。髪は下ろしていて、前髪が少しだけ目にかからないほどの長さで切り揃えられている。片耳には白いワイヤレスイヤホンをつけていて、どこか穏やかな表情に見えた。
俺は思わず入ってきた彼女を目で追う。
いつもの声で迎えるのも忘れていたが、彼女は気にせず奥のドリンクコーナーへ向かう。缶のブラックコーヒーを二本取り、そのまま文具コーナーで立ち止まる。少し眺めてから、シャープペンの芯と大学ノートを一冊ずつ手に取った。
彼女はまっすぐにこちらへやってくる。
「いらっしゃいませ。袋、おつけしますか?」
「はい、お願いします」
「五円になります」
「はい」
相変わらず澄んだ声だった。落ち着いていて、小さくて、やわらかい。
俺はレシートを手渡しながら、「ありがとうございました」と言う。彼女は、こちらを見るでもなくだったが――けれど確かに俺へ向けて、小さく「ありがとうございます」と礼を返した。
店を出た彼女は、ガラス越しに見える店外のベンチに腰を下ろした。
やがてブラックコーヒーのプルタブを指で弾く。夜風が髪をゆっくり揺らす。その後、彼女はその場所で缶を傾けていた。
気づけば、俺は彼女の姿に視線を奪われていた。目の奥がベンチの方へ吸い寄せられる。
「……」
その後、退勤時間になった俺は、タイムカードを切り終えるとロッカーで着替えを済ませ、パソコンの前に座る店長へ声をかけた。
「店長、お先に失礼します」
「うん。あ、吉野くん」
「はい?」
店長は顔をこちらに向けることなく、モニターを見つめたまま言った。
「大丈夫?」
「……え?」
その一言が、どんな意味を含んでいるのか一瞬わからなくて、答える言葉を探す。
「よくわかりませんけど、大丈夫ですよ。あ、あとこの後、少し店の前のベンチ借りますね」
自分でも、なんだかズレた返事だと思いながら告げる。
でもどういうわけか俺の今の返事を聞いた店長は、少しテンションが上がったようにこちら振り返って笑顔で言った。
「そうかい! 風邪を引かない程度にゆっくりしていきなよ」
店長はそれ以上何も言わず、またキーボードに視線を戻した。
俺は裏口ではなく、正面のレジ横を抜けて自動ドアへ向かう。
~♪
軽快なチャイムが鳴り、ガラス扉が左右に開いた。
夜の空気が一気に流れ込む。冷たい風が頬を刺すように吹き抜けた。
自動ドアをくぐり、右手側へ歩いた。
店の外の青いベンチ――そこに、彼女がいた。
桜井澪。
ピンクのダウンの襟を少しだけ立てて、白いワイヤレスイヤホンをつけたまま、目を閉じていた。
その表情はどこかおだやかで、夜の冷え込みすら受け入れているように見える。
それはなんだか久しぶりに見る“夜の桜井澪”のように感じた。
――でも、前と違う。
今の彼女はもう、何からも逃げていない。
やっぱり、今の彼女のほうがずっと良い。
俺は彼女の右隣へそっと腰を下ろす。年季の入ったベンチからは『ギシ』という音が聞こえた。
コンビニの明かりが彼女の横顔を薄く照らし、
伏せたまつ毛に光が反射し、きらりと小さく揺れている。
ふと視線を落とすと彼女の手には、いつものブラックコーヒーが握られていた。
やっぱり“あの人”とは違って、まだちょっと違和感がある。




