第49話 計算外だけど計算通り
日付は変わり、場所は学校。
まだ朝日が差しきらない時間帯。
廊下にはひんやりとした空気が満ち、外からは野球部の走り込みの掛け声が遠くから聞こえてくる。
ちらほらと登校しているのは、真面目な運動部と、部長クラスの数名の生徒だけ。
教師もまだ数人しか来ていない静かな校舎だ。
俺自身も、こんなに早く学校に来るのは初めてだ。
窓の外では、小鳥がさえずっている。
俺はそれらの音を背に受けながら、校舎内に足を進めた。
目の前に佇む木製の扉。
その中央に、黒文字でこう刻まれている。
『生徒会室』
コン、コン。
「どうぞ」
静かで、張りつめているのにどこか澄んだ声。
その扉を開けた。
――それは俺の新たな挑戦の扉。
ギィ……。
朝の光が差し込む室内。
壁には歴代生徒会長の写真、棚には分厚いファイルが整然と並び、中央の机には書類が整えられている。
その正面の椅子に、彼女――
生徒会長こと霞 汐乃が座っていた。
白い指先で一枚の書類を整え、顔を上げる。
整った表情、隙のない姿勢。
早朝にもかかわらず、まるで舞台に立つ直前の役者のように完璧だ。
そして、俺を見ると一言。
「おはよう、吉野大河。いや吉野“副会長”」
その呼び方に、胸の奥がわずかにざわつく。
俺は静かに生徒会室へ足を踏み入れ、黒い長椅子に腰を下ろした。
「お、座り心地いいな」
霞汐乃は、構うことなく書類を整えながら続ける。
「正直、驚いたよ」
「なにが?」
「まさか君が、こんなに早くここへ来るとは思っていなかった。今日の休み時間にも、君のところへ直接出向くつもりだったくらいだ」
「なるほどね」
「どうやら“三顧の礼”は必要なかったようだ」
どこか楽しそうに――けれど、その声は相変わらず落ち着いていた。
「俺には俺の加速装置が二人ほど付いてるからな」
霞さんは片眉をわずかに上げる。
「ほう。一人は桜井澪だろう」
「正解」
俺は少しだけ深呼吸をして、椅子から立ち上がる。
霞さんの横に歩み寄り、そのまま真正面から見据えた。
「俺、やるよ。副会長。力になれるかはわからないが、精一杯やってみる」
一瞬の静寂。
霞汐乃はゆっくりとうなずくと、まっすぐな瞳で俺を捉えた。
「ああ。待っていた、吉野大河。ようこそ、生徒会へ」
その声は、どこか誇らしげで――
まるで俺の決断を祝福するかのように響いた。
* * *
放送委員の声が、広い体育館に反響する。
ステージ上の赤いベルベット素材の幕がゆっくりと開き、壇上には五人の生徒が整然と並んでいた。彼らの左腕には同じく赤いベルベットの腕章が輝いている。
「――これより、新生徒会執行部の紹介を行います。まずは生徒会長、霞汐乃さんです。どうぞ」
朝のホームルーム前。
緊急の全校集会は静けさの中で粛々と始まっていた。
冬の冷たい空気がまだ校舎全体に残っている時間帯。
体育館の床からほんのりとした冷気が上ってきて、吐く息が白く見えるほどだ。
その壇上、中央に立つのは――
新生徒会長、霞汐乃。
整った顔立ちと無駄のない姿勢。
まるで舞台に立つ直前の役者のように隙のない佇まいで、彼女はその場の空気さえ支配していた。
マイク越しに響く声は凛としていて、それでいてどこか柔らかい。
「霞汐乃だ。メンバーの選出にやや時間がかかり、昨年内の発足が間に合わなかったことは悔やまれる。だが――こうして私が納得し、信頼できる仲間を皆に紹介できることを嬉しく思う。今日は私よりも、まずはメンバーからの挨拶を聞いてほしい」
その声の芯の強さに、自然と体育館が静まり返る。
そして、
「では、まずは――庶務、桜井澪」
「は、はいっ!」
名前を呼ばれた桜井さん――いや桜井は、少し裏返った声で返事をした。
ざわ……と、体育館の空気が波打つ。
無理もない。
桜井はこれまで、人前に立つようなタイプではなかったからだ。
だが、桜井はマイクを握る手をぎゅっと結び、
一度だけ深呼吸をして顔を上げた。
「二年A組の……桜井澪です」
その声は震えていた。
でも、逃げずに前を見ていた。
「私は……これまで、この学校の中で自分にできることをなかなか見つけられずにいました。でも……最後の一年、誰かの役に立てるように、力になれるように、精一杯努めます。よろしくお願いします!」
深々と頭を下げる桜井。
言葉はやや短いが感情が乗っている。伝わってくる。彼女の熱が。
体育館に、綺麗な静寂が落ちた。
緊張と期待が同時に張りつめた、透明な沈黙。
その静けさを破ったのは――
「澪っち! 応援してるよー!!」
大島の、遠慮のない明るい声だった。
体育館が一瞬ざわりと揺れ、次いで――ぱち、ぱちぱち、と拍手が広がる。
大島さんの声は、空気を変えるための“合図”のようだった。
この場の空気を読んだ、彼女にしかできないエール。
主役は壇上の五人かもしれない。
だが――舞台の下から支える存在がいてこそ、その光は強くなる。
そんな当たり前のことを、この一瞬で思い知らされた気がした。
桜井は驚いたように目をまばたかせ、けれどすぐに胸の前でそっと両手を握り、嬉しそうに、小さく、でもはっきりと微笑んだ。
拍手は次第に全体へと広がり、体育館の冷たい空気が少しだけ暖かくなった気がした。
そして桜井の挨拶に続き、会計の稲葉澄仁。書記の桐崎杏奈が挨拶を終えた。
そんなふうにひとり、またひとりと新しい仲間たちの挨拶が続いていき――
そして。
「では最後に、副会長、吉野大河」
汐乃の凛とした声が体育館に響く。
「はい」
マイクを受け取り、壇上の中央へ。
ステージの上から見える景色は、想像していたよりずっと眩しくて――広かった。
足元の板の冷たさまで、やけに鮮明に感じる。
(こりゃあ……桜井を笑えないな)
こんな大勢の前に立つなんて、人生ではじめてだ。
“定型文でも用意しておくか”なんて軽く考えていたけど……全部飛んだ。
どうしようかと迷った瞬間、ふと脳裏によぎったのは――
『――誰だって、経験したことのないことは怖いの』
あの日、渚先輩が言ってくれた言葉。
(俺だって!)
息をゆっくり吸って、吐いて。
一度だけ背筋を伸ばして、マイクに口を近づけた。
「さっき紹介された桜井庶務と同じクラスの、吉野大河といいます」
体育館が静かになる。
みんなの視線がいっせいに集まってくる感覚が、皮膚の上に刺さる。
「俺のことを知ってる人の多くは、学期末テストの順位が良い人っていう印象かもしれません」
ざわ……と、小さく空気が揺れた。
「でも、一年前。俺が一年生の時に同じクラスだった人は……こんな俺の印象を、きっと今とは全然違うと思います。なぜなら、その時の俺は――自分でもそう思うくらい、“最悪なやつ”だったからです」
また静寂。
でもそれは、ただの沈黙じゃなかった。
興味と驚きが混ざった、ざわつく直前の静けさ。
壇上の端で桜井が、小さく心配そうにこちらを見つめている。
汐乃は腕を組んだまま、全く動かない。
ただ俺の言葉を聞く準備だけをしている。
そして俺は続ける。
「人を寄せつけず、何に対してもやる気もなかったし……周りに当たり散らすような奴でした」
一瞬、ざわっと小さな波が立つ。
でも、そこまでだ。誰も笑わない。茶化さない。
“そんな過去を自分で言うやつ”なんて普通いないから、みんな静かに耳を傾けていた。
「そんな俺が……いま、こうしてここに立っています。きっと、それは――俺一人の力じゃありません」
――そう。信頼してもらいたいなら、まずは自分から飛び込むしかない。
「支えてくれた人たちがいたからです。背中を押してくれた人がいたからです」
その後のことは、その後で考えたらいい。
「俺は副会長として、特別なことができるわけじゃありません。でも……俺が一年前よりも少し良い方に変われたとするなら、そんな俺のように“変わりたいと思う誰か”の背中を少しでも押せる人間になりたいと思っています」
息を吸う。
「そして、そういう人間になれるように――まだまだ未完成な俺自身も、努力し続けます」
視線を前に戻す。
「長くなりましたが、これから一年間、よろしくお願いします」
深々と一礼した。
一瞬。
本当に一瞬の静寂のあと。
――パン。
誰よりも早い拍手。
それは橘海斗の拍手だった。
そう、彼も俺が一年生の時の同じクラスメイトのうちの一人。
(橘のやつ)
その後すぐに拍手が鳴り響く。
マイクを霞会長の元に戻す時に壇上の端で、桜井が小さく涙をこらえながら笑っているのが見えた。
霞汐乃は腕を組んだまま、満足げにひと言。
「……計算外だが計算通りだ。やはり君は何をしでかすかわからない」
それは生徒会長の“最高の褒め言葉”なのだと、この時はじめて知った。




