第35話 気づいた気持ち
俺は渚先輩が向かうまま外から、コンビニの裏口へと迂回した。
「まぶし!」
柔らかな冬の日差しが目にしみた。
空は雲ひとつない快晴。駐車場の端にだけ、クリスマスごろに積もった雪が少しだけ名残のように残っている。
「ずっと店内にいたからでしょ」
「……ですね」
渚先輩が裏手の従業員用の赤いベンチに腰を下ろす。
「ほら、座んなよ」
「あ、はい」
息を吐くと白く揺れ、風が頬を撫でて通り過ぎていく。
渚先輩は持っていた缶コーヒーを二本、カランと音を立てて並べた。そして、そのうちの一方を俺に差し出す。ピンクの桜マークが描かれた“SAKURA COFFEE”の缶コーヒー。
そのロゴを見た瞬間、思わず桜井ファミリーの顔が俺の脳裏に浮かんだ。
「はい、大河の分」
「頂きます。先輩が缶は珍しいですね」
俺は受け取ってプルタブを開けた。
プシッという音とともに、かすかに立ちのぼる苦い香り。
「澪ちゃん家の会社の商品なんでしょこれ? じゃあ飲んであげないとね」
「確かに」
「飲んでみると結構おいしいしね」
俺たちは黙って缶を口に運ぶ。
「はぁ~」
遠くで車の走る音と、鳥の鳴き声が混ざる。
年明けらしい、のんびりとした昼下がり。
「ねぇ大河。こうして私たちがこのベンチで飲むの、久しぶりな気がしない?」
渚先輩が、暖かい缶を両手で包みながら笑う。
「そういえば、そうですね」
「去年の今頃までは、よく二人でここで休憩してたじゃない。ほら、あの頃はまだ私が就活してなかったし」
「もちろん覚えてますよ」
思い出す。
夜の静けさ、コーヒーの湯気、そして何もできない役立たずの俺を、厳しくも暖かく指導してくれた渚先輩の顔。
気づけば一年が経っていた。
「一年、早いもんですね」
「だねー。それにしても、大河も少し大人っぽくなったんじゃない?」
「えっ、そうですか?」
「バイト入りたて君ってば“狂犬”みたいな目してたしね」
「はは……。あまり思い出したくないですね」
渚先輩は目を細めて、冬の青空を見上げた。
太陽の光が淡く反射して、艶のある髪と控えめな青いピアスがきらめく。
(やっぱりこの人は俺の憧れだ……。どれだけ背伸びしても届かない。
あっ!
そうか!
そうだったんだ。俺はこの人のことが――)
「さてと。飲み終わったら行こっか」
「はい。初詣、ですね」
「うん」
俺たちは缶をゴミ箱に入れ、並んで歩き出した。
穏やかな風が吹き抜ける。
* * *
――空気が澄んでいる。
見上げた空は、冬とは思えないほどの快晴だった。
参道の両脇に並ぶ屋台からは、甘酒や焼きそばの香ばしい匂いが漂ってくる。
人の波がゆっくりと石段を登っていく中、私――桜井澪は両親と並んで歩いていた。
「久しぶりに来たけど、ずいぶん賑わってるね」
父――陽一がそう言って、手すりの向こうを眺める。
「そうね」
母――春香が笑う。その声には、前よりも柔らかい響きがあった。
「うん。でも、こうやって家族三人で来られるのって、いつぶりだろう」
「うーん……小学生の頃以来かな。あの時はお母さん、着物着てたよね」
「あら、よく覚えてるじゃない」
「だって、すごく似合ってたもん」
母は少し照れくさそうに笑い、父は懐かしそうにうなずいた。
「……こうして並んで歩くの、悪くないな」
「本当ね。やっと少し落ち着けた気がするわ」
私はそんな二人を見ながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
去年のクリスマスイヴ。
あの夜の出来事が、まるで遠い昔のことみたいに思える。
「お父さん、お母さん。なんだか、今年はいい一年になりそうだね」
「うん。きっとなるさ」
「そうね。みんなで頑張りましょう」
鳥居の向こう、太陽の光を受けて白い息がきらめく。
賑やかな声と鈴の音。
新しい年の始まりを告げるように、境内の空気は穏やかでまぶしかった。
鳥居をくぐり、境内の中央あたりまで進んだときだった。
母の春香が、ふと前方を見つめて足を止めた。
「あれ……澪、ひょっとしてあの子、吉野くんじゃないかしら?」
「え?」
私もその方向を見た。
人の流れの合間、絵馬掛けの近くに――見覚えのある背中。
黒いジャケット着て、手をポケットに入れながら空を見上げている。
間違いない。
あれは、吉野くんだ――
「一人……なのかな」
思わずつぶやいた声が、冬の空気に溶ける。
その時、父が小さくうなずいた。
「ちょうどいい。クリスマスのお礼も改めて言おうと思っていたんだ」
そう言って歩き出そうとする父の袖を、母がそっとつかんだ。
母は私の方をちらりと見て、やわらかく微笑む。
「あなた。年始早々に私たちで行ったら吉野くんも恐縮すると思うわ」
「……ふむ、そうかもしれないな」
母は続けて私に言った。
「ねぇ澪、私たちはこの辺りを少し見て回っているから、吉野くんに新年のあいさつをしてきなさいな」
そう言って、ウインクをしてみせた。
(……お母さん、もしかして察してくれたのかな)
胸の奥が少しくすぐったくなって、私は思わず笑みをこぼす。
「うん、わかった! また連絡するね」
母と父に軽く手を振ってから、私は人の波を縫うように歩き出した。
吉野くんのいる方へ。
今までとは違う、自分の足で。
人の流れを縫うようにして、私はゆっくりと彼の背中へと近づいていった。
――もう少しで、声が届く距離。
けれど、その直前で足が止まった。
思わず手が髪に伸びる。
(あれ……いま、私、変じゃないかな)
人混みの切れ目から見えるガラス越しに映った自分の姿を、つい確かめてしまう。
前髪を整え、マフラーの位置を直す。
けれど心のざわめきは、少しも収まらなかった。
(どうしよう。なんだろう、この気持ち――前よりもずっと――)
胸の奥がくすぐったくて、でも少し苦しい。
冷たい空気の中で、心臓の鼓動だけがやけに速く響いていた。
(声、かけなきゃ……)
意を決して、口を開こうとしたその瞬間――。
「お待たせ、大河!」
はっとして、声の主の方を見る。
「はい」
彼の返事。
そして次の瞬間、息が止まった。
「ごめんね、女子トイレ結構混んでて……って、澪ちゃん?」
目の前に現れたのは、枝垂渚さんだった。
(吉野くんと……渚さんが、一緒に……)
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
理由なんて、わからない。
でも、確かに感じた。
冷たい風よりも、ずっと鋭い痛みを。




