第33話 もう一つの祝い事
コーヒーの香りが、リビングに満ちている。
湯気の立つカップを前に、桜井さんがそれを両手で包み込んで言う。
「お父さん、やっぱりこの香り、好き」
父はカップを傾けながら、穏やかに笑った。
「そうか。それは良かった」
母もゆっくりと一口を含む。
やがて肩を震わせ、目に涙をにじませる。
「そうね。私が今の会社を立ち上げたのも、元々はこのコーヒーを多くの人に知ってもらうためだったのよね」
「そうだったね」
父がうなずく。
「でも僕たちは、いつしか自分のことしか見えなくなっていたんだ。
僕は自分が“コーヒーを淹れること”だけに囚われて、春香は“会社を守ること”だけに必死だった――結果、どちらもその向こう側の“人の笑顔”を見失っていた」
娘は二人の顔を見比べ、ゆっくりと続ける。
「お父さん。お母さん。……また昔みたいに、みんなで力を合わせようよ」
母は唇を噛み、視線を落とす。
「そうね澪。
でも……陽一さん。松野に聞いて知っているでしょうけど、今の私は、目先の利益を優先して、大口の契約を失った経営者失格の人間よ。違約金の支払いも発生するかもしれない。そんな私を――」
「いや、澪の言う通りだ」
父の声がそれを遮った。
「僕のほうからも力を貸してほしい。
そして、君のミスの件は、実はすでに僕が知り合いに対処を聞いて準備してある。それをどう切り出そうか考えていたところなんだ」
「あなた……」
「その代わりに、というわけじゃないけど」
陽一は少し照れたように笑いながら続けた。
「君に、新しい《SAKURA COFFEE》のマーケティング戦略を考えてほしい。もう一度、僕たちの原点を形にしたいんだ」
母の目が静かに見開かれ、その頬にまたひとつ涙が伝う。
「……あなた……。わかったわ」
「決まりだね!」
娘が嬉しそうに声を上げた。
そのやりとりを、松野さんと梅宮さんは少し離れた場所で静かに見守っていた。二人の表情には、どこか安堵と誇らしさが入り混じっている。
それは、家族という名のブレンドがもう一度ひとつになった瞬間。
「良かったね、桜井さん」
「うん! ありがとう吉野くん!」
その時だった。
ポケットの中でスマホが震えた。
「……あれ?」
画面には【瑞希】の文字。
妹からだ。
「どうしたの電話? あ、もしかして瑞希ちゃん?」
「ああ、そうみたいだ。ちょっと出るわ」
俺は一言断って席を立ち、少し離れた場所で通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『ちょっとお兄ちゃん! いまどこにいるの!?』
いきなり大きな声。思わずスマホを耳から離した。
「ど、どうしたんだよ。そんな大きい声出して」
『どうしたじゃないよ! 今日が何の日か忘れたの!?』
「……クリスマスイブだろ? それにお前は友達の家だって言ってたじゃん。母さんだって夜勤で――」
『それもそうだけど! 十二月二十四日はお兄ちゃんの誕生日じゃん!!』
「えっ」
『せっかくお母さんとサプライズでお祝いしようとしてるのに! バイトが終わってるはずなのに全然帰ってこないんだもん! 心配したんだよ!』
電話越しに瑞希の怒りと焦りの混じった声が響く。
その瞬間、俺は頭を抱えた。
――そうか。すっかり忘れていた。
今日、十二月二十四日はクリスマスイブであり――そして俺の誕生日でもあったのだ。
思わず苦笑。
(ったく、俺ってば。いつも自分の誕生日のことは完全に抜けるんだよな)
気づけば、後ろから桜井さんが不思議そうにこちらを見ていた。
「吉野くん、どうしたの?」
「……いや、ちょっと、忘れてたことを思い出しただけ」
「忘れてたこと?」
「ああ。俺、今日、誕生日だったわ」
「ええ!?」
『ちょっとお兄ちゃん!? 聞いてる!?』
「聞いてる聞いてる! すぐ帰るから!」
通話を切ると、桜井家のリビングには笑い声。
お父さんがコーヒーを飲みながら言う。
「そうか今日は君の誕生日か。じゃあ今日は二重に特別な日だな。せめてこのクリスマスケーキ、いや誕生日ケーキを食べてから行きなさい」
「え、でも」
ここで松野さんが言った。
「帰りは私が責任をもって君を自宅まで送り届けよう。心配はいらない」
「ありがとうございます!」
お母さんが微笑む。
「本当なら吉野くんがプレゼントをもらう側だったということね。悪いことをしたわ」
「いえ、全然!」
桜井さんが楽しそうに笑って言った。
「お誕生日おめでとう、吉野くん!」
「ありがとう!」
* * *
クリスマスケーキ――いや、“誕生日ケーキ”を食べ終えたあと、俺は松野さんの運転する黒いセダンの助手席に乗り、静まり返った夜道を走っていた。
車の窓にはまだ雪が貼りついていて、街灯の光を受けてキラキラときらめいている。
「さ、ついたよ。ここでいいかな」
「あ、はい。ありがとうございました」
「いや、こちらこそだよ」
松野さんはバックミラー越しにこちらを見て、穏やかに笑った。
「君は我々にとっての恩人だ。また日を改めて僕からお礼をさせてもらうよ」
すると助手席の窓が開き、後部座席から桜井さんが顔を出した。
「吉野くん!」
「ん?」
白い息を吐きながら彼女は少しだけためらい、何かを言いたそうに俺を見つめていた。
俺のほうが先に口を開いた。
「早く両親の元に戻ってあげるんだよ。まだ、イブは終わってないからさ」
彼女はこくりとうなずいて――思い切ったように言った。
「あの、吉野くん……! 私と、ラインを交換してほしいの!」
「ライン? あ、ああ。そういえば直接はまだだったな。もちろんいいよ」
俺達はスマホを取り出し、アカウントを交換する。ピロン、と小さな通知音が鳴った。
「……よし、これでいいな」
「うん。ありがとう」
彼女が微笑む。
車の暖房のせいか赤くなったその笑顔が目に焼き付く。
「おやすみ」
「うん……おやすみ」
窓が静かに閉まる。
車が発進し、雪の道をゆっくりと走り去っていった。
俺はそれを見送った。
* * *
鍵を差し込み、そっとドアを開ける。
「――お兄ちゃんお帰りなさい!!」
パンッ!!
部屋の中で、今さっき聞いたようなクラッカーの音と共に紙吹雪が舞い上がった。
テーブルの上には、俺の家とは思えないほど豪華な手作りの料理。
そして、ろうそくが立ったホールケーキ。中央にはお誕生日おめでとうと書いたプレートのチョコレートが立っており、中央には“たいが”とひらがなで書いてある。
「……なにこれ! すげぇ!」
「サプラーイズ! ま、もうバレてるんだけどね」
エプロン姿の妹――瑞希が両手を広げて立っていた。
「お母さんと一緒に準備したんだよ! 夜勤だって嘘までついてもらってね!」
「マジかよ……」
台所の奥から、エプロン姿の母さんが顔を出した。
「おかえり、大河。お誕生日おめでとう」
「え、あ……ありがとう」
なんだろう。
さっきまでいた桜井家のリビングとは違うけど、同じくらいあたたかい。
瑞希がテーブルの向かいに座って得意げに言う。
「はい! ケーキはちゃんとお兄ちゃんの好きなチョコ味!」
「お前……そんなの覚えてたのか」
「当然でしょ。妹だもん!」
母さんが笑いながらジュースを注ぐ。
「最近はゆっくり話せなかったものね。今夜くらいは、ゆっくりみんなで過ごそう」
「……ああ、だな!」
グラスを持ち上げると、瑞希がにこっと笑って合わせた。
「誕生日おめでとう、お兄ちゃん!」
「おめでとう大河!」
「ありがとう!」
その時は気づかなかったが――この瞬間、俺のスマホがピコン、と小さな音を立てていた。
画面にはひとつのメッセージが届いていた。
『今日はありがとう! おやすみなさい、サンタさん』
差出人は――桜井澪。
「でもお兄ちゃん」
「ん?」
「なんでお兄ちゃんってばサンタの恰好してんの?」
「あ、着替えるの忘れてた……」
この日のことは色々と衝撃的で、きっとこの先もずっと忘れられない日になる。
そう思っていたものだ。
まぁ、実際に今でもクリスマスになるとあの子と良く話すのだ。




