第26話 SAKURA COFFEE
コンビニの外は、すでに薄っすらと雪に包まれていた。
駐車場には松野さんの送迎の車だけが止まっていて、青いベンチの上には白い粉雪が静かに積もっている。
俺は持ってきたタオルでその雪を軽く払ってから、ふたりで並んで腰を下ろした。
「さすがにお尻が冷たいな。桜井さんは寒くない?」
俺もさっき買った缶コーヒーを手にしたまま、隣に座る桜井さんを見やった。
「大丈夫。こういう寒さ、嫌いじゃないんだ」
桜井さんは微笑んで、手の中の缶をそっと回す。
指先が少し赤い。吐く息が白く揺れて、少しだけ震えて見えた。
「なら、いいけどさ」
「それにしても、もう嫌になっちゃう!」
「え?」
そう言いながら、彼女は缶に口をつけた。
珍しく愚痴っぽく言葉を吐き出したその横顔を、俺はまじまじと見つめてしまう。
少しの沈黙。
風の音と、自販機の小さな機械音だけが響いていた。
「――お母さんてば、ここのところずっと仕事ばっかり!」
俺は顔を上げる。
「明日もだよ!? 明日はクリスマスイブなのに!」
「そっか……」
「お父さんも帰ってくるって言ってたけど、きっとまたいつもみたいに喧嘩になる」
「帰ってくるって……一緒に住んでなかったんだ?」
「あ、うん。私が高校に入ってからすぐだったかな。それより前から二人の会話は少なかったから、驚かなかったけどね」
「そうか、それは……辛いな」
「もう慣れちゃった! 何年か前からずっとそんな感じだし」
彼女は笑おうとして、うまくいかない顔をした。
「でもね、今日は――ううん。それでも、少しだけ期待してたんだと思う」
「期待?」
「……家族でケーキを食べること。それでね、そのケーキを食べながら、お父さんが淹れた特製のコーヒーを飲むの」
「コーヒー? ケーキとコーヒーって、結構珍しい組み合わせじゃないか?」
「あはは、たしかにそうかも。
でもね、うちのお父さんって“SAKURA COFFEE”ってカフェチェーンの社長なの。だから、コーヒーなんだよ」
俺は驚きを隠せずに声をあげた。
「ええ!? “SAKURA COFFEE”って、あの大手カフェチェーンのか!?」
「うん。今日のこれは違うけど、私がいつも買ってる缶コーヒーは、お父さんの会社とタイアップして出してるやつなの」
「ま、マジかよ……」
そういえば、俺が買った缶コーヒーはいつも桜井さんが飲んでいる銘柄だった。
恐る恐る、手元の缶をゆっくりと回してみる。
あった。
黒いラベルの上の方に、ピンクの桜の印。
その中に『桜』と書かれたロゴが、しっかりと印字されている。
「桜井さんちのお父さん、すげぇな」
思わず感嘆の声が漏れる。
桜井さんは照れたように笑って、缶を両手で包み込んだ。
「ありがとう。“SAKURA COFFEE”は、お父さんが三十歳の時にお母さんと立ち上げた会社なの。私が小さいころ、まだ小さな家の一階で家族三人で暮らしながら、一号店から始まったのを覚えてる」
「そこからあんな豪邸に住むまでになるって、大したもんだな」
「二人とも、一生懸命だったよ。朝早くから夜遅くまで働いて……でも、それが報われたのは私も嬉しかった」
彼女は遠くを見るようにして言った。その目に、懐かしさと寂しさが混ざっている。
「でもね、お店が増え始めて、今の家に引っ越したあたりからは、家族三人が揃うことって、あまりなくなっちゃった」
「そんな……どうして?」
「お父さんは、自慢のコーヒーをたくさんの人に届けることに専念した。それを支えるために、お母さんは広告やマーケティングを勉強したの。だから、SAKURA COFFEEが有名になったのは、お母さんの力も大きいんだよ」
「なるほどな。つまり、二人の力が噛み合って成功したってわけか」
「うん。最初はね。でも、そのあとから二人の考え方が合わなくなっていったの」
彼女の声が少しだけ沈む。
「家でも、そのことで喧嘩が絶えなかった。どっちも間違ってないのに、ぶつかるたびに距離が広がっていった感じ」
「桜井さん……」
「そのあと、お母さんは独立して自分の会社を立ち上げたの。その時からかな、お父さんがあまり家に帰らなくなったのは」
「二人とも優秀だからこそ、ぶつかるところもあったんだろうな」
「……かな。きっとそう。どっちも頑固だから」
彼女は続ける。
「でも、ここ最近は……お母さん、なんだか変なの」
「変?」
「うん。前よりずっと、仕事に追われてるみたいで。なんていうか……焦ってる感じがするの」
「そうか……」
「あ、ごめんね! 私ばっかりしゃべって!」
「いや、話してくれて嬉しいよ。そりゃあ学校でも元気なくて当然だよな」
「でもね、今日はいろんな人としゃべったけど――」
桜井さんは小さく息を吸って、俺を見た。
「“私が変だ”って言ったの、吉野くんだけだったよ」
「え」
「なんでわかったの?」
「なんでって……」
言われて、少し言葉に詰まった。
別に理由なんてなかった。ただ、いつもの桜井さんとどこか違って見えただけで。
「なんでかな。……なんとなく、そう思ったんだ」
「ふふっ、変なの」
「確かに変だよな。気にしないでくれ」
ふたりの笑い声が、夜の静けさの中に小さく響いた。
「そういえば吉野くんは、明日のイブは家族と過ごすの?」
「うち? いや、妹は友達と出かけるらしいし、母さんは夜勤。その上、俺はこのコンビニでクリスマスケーキを大量に売らないといけないんだ」
「ええ!? そうなんだ。じゃあ、私も買いにこようか?」
「そりゃ嬉しいけど。明日は雪が積もるし、それに――」
「それに?」
「その……、桜井さんもお父さんとお母さんと、過ごせるかもしれないし」
雪が髪に触れて、白くきらめく。
「……うん。そうだね。そうだといいな」
ふたりで苦笑した。
「ねぇ、吉野くん」
「ん?」
「もし、あの時……あの夜、私がここに来てなかったら、今みたいに話してたと思う?」
俺は少し考えてから、首を横に振った。
「たぶん、話してない。あの夜があったから、今があるんだと思う」
「私もそう思うよ」




