第23話 適わない人
「じゃ、俺は今日バイトあるから先いくな」
「うん、じゃあね吉野くん」
日直の仕事を終えた俺は桜井さんと別れると、そのままバイト先のコンビニへ向かった。
すでに暗くなっている住宅街の街灯には灯りが優しく光っている。そんな中を、傷だらけの銀色の自転車を漕ぎながら冷たい風を切った。
「手が冷てぇ!」
キキィ――。
ブレーキの音が、静かな通りに響く。
やがて店の明かりが見えてくる。
駐輪場に自転車を止めると、いつものように裏口へ回った。
その赤いベンチの上――。
ネイビーのダウンジャケットを着込んで、白い息を吐きながら紙カップを両手で包む人影があった。
コーヒーマシンでドリップしたであろう香ばしい香り。
「……あ」
視線が合う。
「あ、タイミングブスくんじゃん」
先に声を出したのは渚先輩だった。
大学四年生で、俺がこのバイトを始めた頃から指導してくれている尊敬すべき先輩。
紙カップを持つ仕草まで大人っぽくてどこか絵になる。
「ちょっと先輩、“タイミングブス”ってなんですか。相変わらずの毒舌ですね」
「口の悪さは大河には勝てないよ」
「えぇ……」
思わず苦笑する。
彼女のこういう調子に、昔から振り回されてきた気がする。久しぶりのこの感覚は嬉しいが、それもあと少しだと思うと、やはり寂しく感じる。
「そういえば先輩、あのラインのメッセージはなんだったんですか? “桜井さんのことを守れ”とかなんとか。結局あの件についての返信はなかったし」
「ああ、あれ? 気になってたんだ?」
「いや気になるでしょ。桜井さんとなにかあったんですか?」
「まぁね。あの子、あの日一人でここにきたんだよ」
「一人で? いつもみたいな送迎じゃなくて?」
「そう。なにか思いつめてたみたいだったから私が慰めておいたよ。でもあの子、大河に会いたかったみたいだよ」
「俺に……?」
「うん。なんだか思い詰めてここに来たみたいだった。それがなんなのかはその時は聞かなかった。それは大河の役目でしょ?」
「え?」
「あの子は大河を頼ってきたんだからさ」
「……はい」
渚先輩は紙カップを少し傾けて、湯気の向こうから俺を見た。
「で、あのメッセージを見て、大河はなにか行動したの?」
「え……まぁ、色々いきさつはありましたけど。先輩があんなことを言うから、まさにあの日、彼女に会いましたよ」
「おお! すごいじゃん!」
「え?」
「で、その日の澪ちゃんはどうだった?」
俺は目線を逸らす。
思い浮かぶのは、あの時の桜井さん――髪を切って、笑顔を見せた彼女の姿だ。
「……どうって。桜井さん、あの日から本当に変わりましたよ」
渚先輩が興味深そうに眉を上げる。
「ほう?」
「もうすぐ俺出勤ですし、詳しくは言いません。実際に見た方が早いと思いますし。でも――先輩の言う通り、動いてよかったと思います。なんかよくわかりませんけど、とりあえず忠告ありがとうございました」
俺は深く頭を下げた。
その瞬間、彼女は黙ってから、ふっと笑う。
そして立ち上がると、俺の髪をくしゃくしゃにかき回した。
「うわ、ちょ、また! やめてくださいよ! これからバイトなんですから!」
「うりうり」
「子ども扱いしないでくださいって!」
俺の抗議をよそに、渚先輩は楽しそうに笑いながら紙カップを掲げた。
その笑顔は、寒い冬の夜の光よりも柔らかくて、どこか懐かしかった。
そう、あの時も先輩はこの顔をしていた。
* * *
――ガシャン!
俺がバックヤードでタイムカードを切ると同時に、店長がシフト表を手にこちらへやってきた。
(おっと、これはシフトの相談だな)
こういう時の店長の切羽詰まったような表情は幾度となく見てきたからよくわかるのだ。
「吉野くん、ごめんよ。ちょっとシフトの相談なんだけど、いいかな?」
「あ、はい。いつですか?」
店長は頭をかきながら、申し訳なさそうに言葉を続けた。
「来週の二十四日、クリスマスイブなんだけどさ。夕方から入ってた子が一人、急に休みになっちゃってね。悪いけど吉野くん、代わりに入れないかな?」
クリスマスイヴの日は、母さんもたしか仕事だったはずだし、瑞希のやつも友達の家でパーティをすると言っていた。
特に予定もない。やるとしても勉強か、そうでなくても友達とオンラインゲームをするかネットで動画を見るかくらいのものだ。
「はい、別に構いませんよ」
そう答えると、店長は安堵したように胸をなでおろした。
「いやー助かった! ごめんねぇ、クリスマスイヴなんて日に。何か予定でもあるかと思ってさ」
「いえ、特にないので大丈夫です」
「そうかい? いやぁ、よかったよ。今年は例年よりケーキの発注が多くてさ。予約以外の分もできれば全部売り切りたいんだ。人手が多いとほんと助かるよ」
そのとき、ちょうど裏口から渚先輩が戻ってきた。空の紙コップを片手に、軽く笑いながら言う。
「その日は私もシフト入ったからね。――一緒にサンタの帽子被って頑張るよ、大河!」
「先輩も入ってたんですね?」
店長が苦笑交じりにうなずく。
「いやぁ、先に枝垂さんに頼んでみたんだよ。そしたら“吉野くんも道連れにできますか?”って怖い目で言われちゃってねぇ……あはは」
「店長、それ言わなくていいですって!」
「もう……店長」
俺は呆れながら渚先輩の方を見る。先輩は俺の口が開くより先に言った。
「なによ、その目は」
「……いや、なんでもありません」
渚先輩はふっと髪をかき上げ、得意げに言う。
「クリスマスイブの日に、私と同じシフトに入れるなんてありがたく思いなさいよ」
「先輩……。彼氏がいないからって、人を巻き込むのはやめてくださいよ」
「なにか言った?」
「いえ、なにも」
俺も店長と一緒に、しゅんと肩を落とした。
渚先輩は楽しそうに笑いながら言った。
「いいじゃない。せっかくのイベントなんだから、楽しく働こうよ! ね、二人とも」
「「はい……」」
店内では、すでにクリスマス用のBGMが流れ始めていた。棚にはツリーの飾りや、色とりどりのケーキの予約カード。
外の寒風が吹き込むたびに、自動ドアの鈴がにぎやかに鳴る。
――そうか、もうすぐクリスマスか。
今年も、なんだかんだで早いもんだ。
そういえばうちは家族で二十五日に家族三人で軽いクリスマスパーティをしようってなってるけど、桜井さんのところはどうなんだろう。一応、お金持ちではあるんだろうし、家族で仲良くパーティとかするもんなのかな。
桜井さんは思い詰めてここに来るほどに、色々悩むこともあったんだろうけど、それを俺には言わずに吹っ切って変わることを選んだんだ。
彼女が俺を頼るのなら。
そして、彼女が変わることを望むのならば。
俺はそれを全力で手助けしたい。




