第14話 二輪の夜桜
窓の外を流れていく街灯の光が、一定のリズムで私の横顔を照らしていた。
「あの、松野さん。やっぱり……送迎でないとだめですか?」
後部座席からおそるおそる声をかけると、運転席の松野さんがミラー越しに私を見た。
「もちろんです。お嬢様を一人で歩かせるわけにはいきません。そうでないと僕、いえ私が社長に叱られてしまいますから」
「ですよね……」
私は息を吐いて、窓の外に視線を戻す。
ガラスの向こうでは、道路脇の街灯が規則正しく流れていく。遠くに見えるコンビニの看板の光が、夜の闇をやさしく切り取っていた。
――ここだけは、少しだけ“日常”に戻れる場所。
自分の家よりも、学校よりも、気を張らずにいられる不思議な場所。
車がゆっくりと減速し、やがて停まる。
「では、私はいつものようにここで待機しております。どうぞごゆっくり」
「ありがとうございます」
ドアを開けた瞬間、冷たい夜風が頬を撫でた。両手をコートのポケットに入れる。
暗くて静かな住宅街の中に、ぽつんと光を放つコンビニ。
決してきれいな外観ではないけれど、心が落ち着く。
「今日は……吉野くん、いるかな」
そうつぶやきながら歩き出す。
~♪
自動ドアの前に立つと、軽快な電子音とともにガラスの扉が開く。
おでん始めましたと書かれた張り紙が一緒にスライドしていくのが見えた。
店内に漂うレジ前のおでんの香り。
私は白いコートの襟元に手をやり、ピンクのマフラーを少し緩めながら、入口正面のホットドリンクコーナーに向かった。
棚にはいくつもの缶コーヒーやペットボトルが整然と並び、赤・青・黒――どれも見慣れた色の中から、いつもの黒いラベルのブラックコーヒーを手に取る。
「いらっしゃいませ」
(あれ)
聞き慣れない声がした。
ふと顔を上げると、レジに立っていたのは見覚えのない女性の店員さんだった。
大人びた落ち着いた声色と、柔らかな物腰。このコンビニにはたびたび来ているが、この人を見るのは初めて。
私はその場で瞬きする。
夜は眼鏡をかけずに来ることが多いから、レジ越しの相手の顔はぼんやりとしか見えない。
それでも――声色と動きの印象だけで、どこか“穏やかで聡明な人”という印象を受けた。
(新しく入った人……かな? それにしてはなんだか、雰囲気のある人だなあ)
そんなことを思いながら、コーヒーを持ってレジに近づいた。
「おねがいします」
「はい、いらっしゃいませ。では――百三十九円になります」
私は店員さんのことを考えながらだったから、あるいは寒さで手がかじかんでいたからか、財布を取り出そうとして、手元をもたつかせる。
「あ……っ」
財布が手から滑り落ち、小銭が床に転がった。
「やっちゃった……!」
慌ててしゃがみ込む私の隣で、店員さんの手も伸びる。
「大丈夫ですか? 私も手伝いますね」
距離が近くなったから彼女の顔がはっきり見えた。
照明の下で揺れる黒髪、整った横顔。どこか芯のある雰囲気をまとっている。名札の名前は「しだれ」と書かれているのが見えた。
(わー、すごい美人さん。私よりも年上の方だよね)
「ありがとうございます。助かります……」
「いえいえ。よくありますから」
やがて小銭を拾い終える。
「これで全部かな」
「はい、ありがとうございます。助かりました」
「いえいえ、じゃ、改めて百三十九円です」
その仕草も、声のトーンも、どこか心地いい。
会計を済ませ、コーヒーを受け取る。
「ありがとうございました。またどうぞ」
(不思議な人……。落ち着いてるのに、どこか温かい)
会計を終えた私は、自動ドアをくぐり外の冷たい空気に包まれた。
~♪
夜の静けさが、コンビニの明かりをよりいっそう際立たせている。
出入り口の横にある、いつもの青いベンチ。
そこに腰を下ろし、手にしたブラックコーヒーの缶を開けた。
ぷしゅ、と小さな音。
金属の香りに混じって、深いコーヒーの香ばしさが広がる。
スウェットの上から羽織った白いコートが、夜風を少しだけ遮ってくれる
「はぁー……」
コーヒーを口に含む。
苦みとわずかな酸味が、冷えた喉にゆっくりと染みこんでいった。
通り過ぎる車のヘッドライトがぼやけて見えるのが綺麗だった。
「帰って……もう少し勉強、頑張ろっかな」
そうつぶやく声が、夜気の中に溶けていく。
――やるべきことは山ほどある。
それでも、ほんの少しの時間だけは、ここにいたかった。
(今日は……吉野くん、いなかったな)
ふとそんなことを思う。
このコンビニでの彼との何気ない会話。それが、いつの間にか日常の一部になっていた。
残りのコーヒーを飲み干す。
立ち上がり、コートの裾を軽く整えて、深呼吸をひとつ。
「さて、帰ろう」
* * *
桜井澪が帰ったあとのコンビニ。
時計の針は夜の九時を少し回っていた。
「ふぃー……。結構、派手に汚れてたな」
俺はトイレ掃除用のバケツを片づけながら、マスクを外した。いつもより人の出入りが多かったせいか、今日の掃除はなかなか骨が折れた。
「お疲れ、大河」
声のほうを向くと、カウンター横でたばこの在庫チェックをしていた渚先輩がこちらを見ていた。
「いえ、渚先輩こそ忙しかったんじゃないですか?」
「大丈夫。……でも、ちょっと可愛いお客さんはいたかな」
可愛い? その言葉に思わず手が止まった。
「どんな感じでした?」
「見た目も中身も、ふわっとしてる感じの今時の雰囲気の子」
――それって。
「……もしかして、その人って缶のブラックコーヒーを買っていきませんでした?」
「そうそう。私はドリップ派だけど、あの缶のやつも意外とおいしいんだよねー。――あ、じゃなくてその子、大河の知り合い?」
先輩の問いかけに、俺は一瞬ためらってから答えた。
「はい。クラスメイトなんです。週に何度かこの時間に来るんですよ」
「そうなんだ」
先輩は少し驚いたように目を瞬かせ、それからふっと笑った。
「残念。タッチの差でもう帰っちゃったみたいだね」
「はい。まぁ仕方ないですよ」
俺がそう言うと、渚先輩は一瞬考えて言った。
「……もしかして、大河の好きな子?」
「なっ、なに言ってるんですか! そんなわけないですよ!」
「ふふっ、あやしー」
からかうような笑みに、思わず視線を逸らす。
「お、俺、レジ変わりますね!」
逃げるように言って、俺はカウンターの奥へ向かった。
その背中を見送りながら、枝垂渚は小さく笑みを浮かべていた。




