93.俺とお前の別れ道
暗い空の奥の方が、うっすら青みを帯びてきた。夜明けが近い。
駐車場に停めてある車の多さや、展示されているブースは何も変わっていない。
しかしみんなが寝ている夜明けの静けさは想像以上だった。
あのあと俺はフェスティバル会場に戻り、車内でエルマと仮眠を取った。
――――そもそも運転席がバケットシートだから一人しか寝られないという前提だったが、疲れ切っていた俺とエルマにとってそんなことはどうでもよかった。
物理的なスペースでいえば問題はなかったので、多少ぎゅうぎゅう詰めになろうとも構わず助手席でぐっすり眠れた。
しかし俺はまだ日も登っていない頃に目を覚ましてしまったので、エルマを起こさないように気を付けながら、Zの傷や小さなへこみなどを見つけてはできる限りの修復を試みるという作業を繰り返していた。
フェスティバル2日目の今日は、やはりフリー走行会が目玉となる。
会場の人々が自由に峠を走れる走行会は、前日の熱いバトルを勝ち抜いて称号を獲得したばかりの四迅と走るチャンスでもあるからだ。
寝る前と比べればいくらか見た目が良くなったZを見て、俺はエルマに一言伝えてから誰もいない峠を眺めに来た。
いつの間にか眩しさを感じて視線を上げると、太陽が山奥の地平線から光を放っていた。
何人かは起きて作業を始めているようで、工具やパーツのガチャガチャとした音が聞こえてくる。
後ろに気配を感じた。
振り向くと、ウラクが缶コーヒーを両手に持って立っていた。
「へっ、まだ話しかけてもねえのに」
俺は差し出されたコーヒーを受け取る。
「ありがと。俺だってここにいるとは言ってないけど」
「別に、お前のためと思って買ったコーヒーじゃねえよ」
「じゃあなんで二缶持ってたの?」
「……たまたま二缶飲みたかったんだ」
「はいはい」
缶から立つ湯気がはっきり見えるほどの温かいコーヒーは、早朝の風で冷やされた俺の体に気持ち良く染み渡る。
ふとウラクの姿を見て、羽織っているベンチコートが気になった。
「その上着、良いデザインだね」
黒地にゴールドのストライプ。そして背中に大きくデザインされたコーリン社のエンブレムと、その他多数のスポンサーロゴ。
「だろ? 実はこれ、コーリンと契約したときにもらったんだぜ」
「あー、そういえばそんなこと言ってたな」
コーリンとは言わずもがな、ティアルタ共和国の自動車メーカーだ。60年以上前からモータースポーツ活動を行っている老舗のレーシングチームでもある。
ウラクはそこと契約して、来年からワークスドライバーとしてレースに参戦するのだ。
なんてことを考えていると、ウラクが俺の目を真っ直ぐ見て話し始めた。
「レイ……実は、言わなきゃいけねえことがあるんだけどよ」
珍しく真面目な議論でもするのかと思い、俺は思わず身構える。
「何?」
「俺が来年からクラス2にステップアップするのは知ってるよな」
もちろん知っている。
今まで戦ってきた戦場を去って、より高みを目指していく。レーサーなら、機会があれば誰だってそうするはずだ。
そしてウラクにはメーカーとの契約という、十分すぎるチャンスが揃っている。
「で、コーリンの本拠地はティアルタだ。……分かるか?」
俺は全てを察して、頷いた。
薄々勘付いていた。クラス3は国内シリーズであり、地域やシリーズごとにレギュレーションの細部も異なるが、クラス2のレースは世界レーシング協会が統一規格で国ごとに主催する公式選手権だ。
ウラクは来年から、ティアルタシリーズに参戦するのだろう。
「じゃあな。元気で」
「いや待て待て待て。もうちょっとなんかこう、別れを惜しむ気持ちとかねえのかよ」
「少しはあるよ。それで、ティアルタ行きの飛行機はいつなんだ?」
「察しが早えな。……明後日だぜ」
俺は心臓が締め付けられるような気がして、気付けば冗談も言えなくなっていた。
今までの12年間を共に過ごしてきたウラクと離れ離れになる。その意味を深く考える暇もなく、俺は思い出だけを頼りに口を開く。
「明後日か。本当、ここまで長かったよな」
「ああ。ラ・スルスに入学した時の俺には想像もつかなかったはずだ。まさか自分があのコーリンと契約して、海外シリーズに参戦するためこの国を出るなんてよ」
「俺だって、卒業式のレースの時から漠然と思ってた。これからウラクとずっと一緒に走り続けるんだって……まあ、そうはいかなかったけど」
「心配すんなって。グランプリ・ワンでまた戦おうぜ」
相変わらずの大口叩きに、俺は思わずコーヒーを噴きそうになる。
しかし不思議と、俺たち二人が出場している光景はいとも容易く想像できた。
「ウラク、家族はどうするんだ? まさか一家海外移住?」
「んなわけあるか、俺だけだ。両親にはもう伝えたし、妹も大丈夫だろ」
「妹か……そういえば会ったことないな」
「一応あいつもラ・スルスの生徒だぜ。つってもオートモービル学部のコンセプト学科だから、何やってるのかは知らねえけどな」
「ふーん……」
何回か話は聞いてるが、やはり妹もラ・スルスに通っているのか。
「レイは来年どうすんだ? お前もクラス2の出場資格、持ってるはずだぜ」
「もちろん。とりあえずZはチューニングしたし、ジルペインシリーズに出場するかな」
「そうか。まあこの国もこの国でレベル高いし、油断だけはすんなよ」
「分かってるって」
展望デッキから峠を眺める俺たちの背後から、点々とエンジンの暖気音が聞こえ始めた。
朝日がフェスティバル会場を照らす。
俺とウラクが一緒に過ごす、最後の一日が始まった。
朝行われる2日目のセレモニーが終わると、俺とウラクは顔を見合わせてすぐに自分の車へ向かう。
フリー走行会のコース解放だ。先頭は何としてでも譲れない。
俺がZの運転席に乗り込むと、エルマが袖を優しく引っ張った。
「今から走るの? だったら……私も隣に乗せてくれない?」
エルマの方からこんなことを頼んでくるのは珍しいが、俺に断る理由はない。
「構わないけど、万が一のことがあっても――――」
「私、レイの本気が見てみたいな」
そう言われて思わず俺は微笑んだ。
「いいよ。じゃあ、限界まで攻めるからな」
Zがスタートラインに着くのと同時に、横からイライザ350が現れた。
俺たちはいつだって一番乗りだ。
運転席側ドアウィンドウを開けると、早速ウラクに宣戦布告される。
「この峠でお前に勝てるなんて最高だぜ、レイ。良い気分で飛行機に乗れそうだ」
「はいはい、その自信も聞き飽きた。俺の走りを後ろから見れるなんて、ウラクはラッキーだな」
すると、周りの空気がやたらざわつき始めた。
『おい、黒のイライザと“朱雀”が走るっぽいぞ!』
『これは見逃せねえ!』
「どうやら観客も“朱雀”の初勝利を見たがってるらしい」
「せっかくだし、俺が下克上の大番狂わせを演じてやるよ」
スタートしてもいないのに瞬く間に注目が集まる。
観客の誰かが頼んだのだろうか、スターターが俺たち二台の前に立って両手を高く上げた。
「……昔と何も変わってないな」
「思い出に浸ってると出遅れるぜ」
俺はドアウィンドウを閉め、真っ直ぐ前を見て集中した。
ふと視界の左隅にエルマの笑顔がよぎる。
俺の本気が見てみたい、か。
文字通り全てを注ぎ込んで本気で走れるのは、ウラクと走るときだけだろう。
これ以上ないほどリラックスした状態で深呼吸をする。
楽しいバトルになりそうだ。
『3、2、1――――GO!!』
〈第四章 完〉




