92.今にいる者、いない者
「はぁ……はぁ……」
やっとエネシスが停まった。
俺は車を降りようとドアを開け――――
「レイ!」
そこには、雨に髪を濡らしたエルマが立っていた。
「エルマ……?」
暗闇の中に紛れてファインの姿も見える。
「ファインも、なんで――――」
気付いた時には、エルマが車内に飛び込んできた。
「急にいなくならないでよ!」
狭い運転席シートの中で密着した肌の体温が服越しに伝わってくる。
俺はどうしていいのか分からず、シートから滑り落ちないように腕を回して抱いた。
「夜中にどっか行くから……私、すごく心配で……!」
そうか、そうだよな。俺が何も言わず会場を抜け出したせいで不安になって、わざわざここまで追いかけてくれたのか。
「……ごめん。本当にごめんね、エルマ」
できるだけ安心してもらいたいから。そして、『もう絶対にいなくならない』と口に出して言えなかったから。
俺はさらに強く抱きしめた。
「もう……うっ……」
ところで、ファインはよりにもよって雨なのにどうしてここに来たのだろうか。
それを思う間もなく視界に映ったのは、幽霊のエネシスに歩み寄ってドアを勢いよく開けたファインの姿だった。
「――――――っ!?」
ファインが絶句したのを見て、俺はエルマを車内に残しエネシスの様子を見に行こうとした。
だが、一足遅かった。
「ふっふっふっふっ……君らと話している暇はない」
幽霊の声が聞こえるのとほぼ同時。
「……痛、い……!」
数メートル先でファインが倒れていた。
俺は慌てて駆け寄ろうとするが、幽霊に阻まれる。
「動くな。レイ、ファイン……君たちはなぜ俺を追い詰める? ふっ、一体何がしたいんだ?」
「聞きたいのは私の方!」
間髪入れず、ファインが声を張り上げて聞き返した。
うずくまりながらも、はっきりとした口調で。
「何も変わってない……5年前の首都高から、エヴァーミタができる前から。名前も正体も隠して、誰にも信用されてなくて……」
「名前、か」
幽霊は人を見下すような口調で、ゆっくりと話し始めた。
「名前ごとき、聞きたいなら教えてやろう。ふっ……俺は、アイギス・イルハッシュだ」
――――俺の予想は、当たっていた。
5年前、“災いのウェットレース”で失踪したアイギス・イルハッシュ。名を騙っているとは考えられない。
「計画への協力、ご苦労。助かった」
そう言われたファインの表情は絶望へと歪んでいく。
「レイ。君は俺の名前に聞き覚えはないだろうが、構わない」
「――――二人ともここで死んでもらうからな」
「危ない!」
俺が咄嗟に叫んで、ファインと俺は同時に左へ走る。
ついさっきまで俺が立っていたはずの空間は閃光に包まれていた。
「なんだ、これ……」
「電気。……あいつの魔法」
ファインは面白くなさそうに呟いた。
魔法――――特定の物と波長を同期させ、自由に操る能力。人口の一割程度しか使えない、限られた才能。
そんなものに、一体どうやって対抗すればいいのか。
「ファイン、俺の魔法については他言無用だと言ったはずだが。ふっ」
再び閃光が視界を照らす。
逃げ回っていては仕方ない、何か策を考えなければ。
幽霊は電気の魔法を使える。やはり、俺が感じた痛みは電気によるものだった。
するとどうやって攻撃しているのかが気になる。
走るので精一杯のところをどうにか目を凝らして幽霊の手元を見ると、二股のフォークのようなものを持っていた。
あれが誘導コイルにおける電極のような役割を果たしていると見て間違いないだろう。
足が痛くなってきた。転んだりして電流に殺されるのも時間の問題だ。
ファインの息も切れてきている。
このままでは、俺は本当に死んでしまう。
救いを求めて辺りを見回すと、向こうに停めたままのZが視界をよぎった。
助手席にエルマを残したままであることに気付いた時にはもう遅かった。
「――――エルマ! 降りろ!」
俺の判断も空しく、幽霊はZのドアを半開きにして車内に電極を突き付けた。
「ふっ、動くな」
最悪だ。
Zもろともエルマを人質に取られれば、俺には為す術もない。
そして幽霊は明らかに俺とファインの命を狙っているわけだから、交渉の余地も期待するだけ無駄だろう。
幽霊はZを背にして、ファインの前に立ちふさがった。
「計画のことなど大人しく忘れてくれれば良かったものを。……今更遅いがな。ふっ」
首筋に電極を突き付けられる。
「まあ、友達と一緒になれていいじゃないか」
と幽霊が言った瞬間、ファインは幽霊の胸倉を掴んだ。
「……どういう意味?」
ファインが問い詰めるが、表情一つ変えずに幽霊は話を続ける。
「そのまんまさ。アイギス・イルハッシュ、そして君の友達だったイト・ルエック。この二人は、書類上『死亡した』ということになっている」
イトという名前を聞いたことはなかったが、俺はすぐにピンと来た。
ファインのかつての親友で、同じくロータリー使い。そして“災いのウェットレース”でファインに金属片を託し、アイギスと共に失踪したはずのレーサー。
書類上、死亡した?
「――――もっとも、俺は生きているが。ふっ」
「イトは、どこ」
ファインは威嚇するように繰り返し聞いた。
「イトは!?」
「死んださ」
俺が息を吞むよりも早く、ファインは幽霊を思いっ切り殴った。
一瞬遅れて金属音が鳴った。幽霊は取り落とした電極を拾おうとするが、ファインに蹴り飛ばされる。
「ふっ、勘違いするな。奴は……自ら死を選ん、だんだ」
そのまま地面に這いつくばり、幽霊は咳き込みながら喋った。
「あのレース、でN-0を盗むと、きに……ふっ。俺の嘘を……疑ったからだ」
しかしファインは全く耳を貸さずに、憎悪に満ちた表情で蹴り続けた。
「偽装にも……全く手を貸さず。しまいには、俺を……告発し、ようと」
そしてそのまま幽霊を崖の方向まで足で無理やり引きずると、地面に落ちた電極を拾った。
ファインは電極を握った右手を振り上げ、ゆっくりと口を開く。
「……もういい。もう、十分」
俺はその間にZに駆け寄りドアを開け、エルマの無事を確認する。
「大丈夫? 怪我してないか?」
「うん。……ありがとう」
また人質に取られては困る。
俺はエルマと共にいったん車を降りようとしたが、ファインに止められた。
「危ないから、ここを離れて」
「だって、このままじゃ――――」
「いい。幽霊は私がなんとかする。二人を危険に晒したくないから、逃げて」
逃げることなんて、俺には許されない。
自分で幽霊を呼び出しておいて、最後には逆に命を狙われる始末。ファインが助けに来てくれなければ、今頃俺はこの世にいないはずだ。
なのにファインだけを残して逃げるなんて。
「……ほら、早く」
それでも俺は、何の義理もないのに俺とエルマを助けてくれたファインの優しさを信用したい。
「――――分かった」
すぐに外からZのドアを閉められた。
思うところはたくさんあるが、今はとりあえず忘れなければならない。
エンジンを掛けて素早くクラッチを繋ぎ、アクセルを踏む。
幽霊に追われていたせいで外装には多少傷がついているが、幸いにもエンジンや足回りにダメージはないようだ。
助手席の方を向くと、エルマが今にも泣きそうな目で俺を見ていた。
「本当にごめん、エルマ。まだ怒ってるよね」
俺がそう言うと、涙を拭って首を横に振った。
「ううん、いいの。レイが無事だったから……私はそれだけで幸せ」
「……俺もだよ」
なぜかは分からないが、俺の目からも涙が溢れそうだった。
それに気付いて俺は慌てて前を向き、滲みかけている道路をあまり飛ばさずに走り続けた。




