90.狂った雨が降り注ぐ
衝撃を感じて、俺は地面に倒れたことに気付く。
「しぶとい奴だ……自分の幸運に感謝しろ。ふっ」
幽霊の言葉に意識を向けられないほど、ビリビリと痺れるような痛みが首元や背中を襲う。
力が入らなくて立ち上がれない。
「うっ……あああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
誰かが俺の名前を呼んでいるように聞こえた。
駄目だ、こんなところで死ぬなんて――――
――――覚悟する間もなく痛みは時間とともに引いていき、ものの数秒でどうにか動けるまで回復した。
何かを突き刺されたような感触がまだ残る首筋を、震える手で触って確認する。
血はおろか、傷すら見当たらなかった。
全身に残る違和感の正体に気付く。
だがそれよりまず先に、幽霊を追わなければならない。
エネシスはそう遠くない。俺は急いでZに乗り込む。
「待て……!」
エンジンをかけ、明かりのない道を全開で走る。
この峠の頂上に繋がる道は2本しかない。
幽霊がどっちから逃げたかははっきりと見えたから、このまま追い続ければいずれは追いつくはずだ。
いつの間にか雨が降り始めていた。
怒りと困惑に引っ張られながら、俺はさっきの痛みについて考える。
ああいう系統の苦痛を、過去に一度だけ感じたことがあった。
感電だ。
前世で濡れた手のまま家電に触ったときの痛みを思い出した。
すると俺の首筋に当てられたのはスタンガンか何かということになる――――いや、そもそもこの世界にスタンガンは存在するのか?
月を隠している雲から大雨が絶えず降り注ぎ、路面状況は最悪だ。ワイパーだってほとんど何の役にも立たない。
それでも俺は何も考えず、ただ一心不乱に峠を限界まで攻め続けている。
数えきれないほどあるコーナーのうち、また一つを抜けて加速した時。
ほとんど何も見えない暗闇の視界に、赤いブレーキランプがちらついた。
「やっと追いついた――――うわっ!?」
喜んだのもつかの間、幽霊の不規則なブレーキングのせいでぶつかりそうになり、慌てて俺もブレーキを踏む。
その勢いでタイヤがロックしてしまい、水の上に浮かんでいるような状態のZはコントロール不能だ。
一瞬の隙をついてエネシスは再び加速し、負けじと俺もタイヤのグリップを回復させて追う。
そんな汚い手段を使ってまで、幽霊は一体何をするつもりなんだ――――?
雨のせいで挙動が不安定になり、ジタバタともがいて暴れようとするZをどうにか押さえつけて走る。
俺はZの扱いやすいパワーと剛性に感謝する。これがもしウラクのイライザ350とかだったら、今頃俺は生きていないだろう。
突如バックミラーが光った。
「な……いつの間に!?」
追いかけていたはずのエネシスが、後ろから俺を追いかけている。
どこか脇道にでも隠れて待ち伏せしていたのか。
「どうしたらいい……?」
もしこのままコーナーで突っ込まれたりしたら、二台揃って崖下真っ逆さまだ。
ミラーがどんどん眩しくなってくる。距離を詰められている――――
背中に衝撃を感じた。
当たってほしくない予想だったが、やはりあっちはその気らしい。
Zを小突かれた怒りで頭が痛くなりそうだが、今はまずこの状況をどうにかすることが先決だ。このままではいずれバランスを崩して悲劇が起こるのも時間の問題だろう。
「危なっ!」
ああ、まただ。
明らかに殺意を持ってぶつけているとしか思えない。
ただでさえ雨のせいで神経を尖らせて運転しているというのに、幽霊のせいで俺の精神と集中力は限界を迎えていた。
死の恐怖とZに怪我を負わせてしまう恐怖で足が震える。だがアクセルを緩めれば――――想像したくはないな。
もはや俺に止まることは許されていない。
どうあがいても仕方がないのだから、ひとまず冷静に考えよう。
このまま峠を下ればやがて麓の町に出る。そこは道幅も広いし高架道路の入り口も通ってるからそこならまだ命の心配はしなくてもいいはずだ。
もちろん、ここからあと何kmか続くであろうデスレースを生きたままフィニッシュできればの話だ。
のんきなことを言っている場合ではない。今この瞬間にも幽霊はエネシスを俺のZに後ろからぶつけている。
そんなことが許されるのはNASCARぐらいだ――――この世界では通じない冗談だろうが。
このままずっと追われ続けていれば、いつか必ず死ぬ。
賭けに出るしかない。
次の左コーナーを曲がったら、ある程度の長さがある直線に出るはずだ。
そこで無理やりにでも、あのエネシスを停めさせる。
後ろからまたエネシスが近づいてくる。俺はあえて右車線に寄り、スペースを開けてアウトから曲がった。
幽霊がインを刺して俺に並びかけるが、アウトから加速している俺と脱出のスピードは五分五分だ。
よし、狙い通り。
直線に出る。右側は山、左側は崖。
エネシスの真横で並走しているZを、俺は徐々に左へ寄せる。
どんどん幅寄せしていけば幽霊はやがて車を停めざるを得なくなるはずだ。
そのまま、ゆっくりゆっくり――――止まらない。
俺は道路のほぼど真ん中を走っている。そしてZの左側、崖際スレスレを全開で走っているエネシス。
これ以上は圧力の掛けようがない。もしこのまま寄せ続けたら――――
どうしようもないままアクセルを踏み続けるしかない俺の視界に、正面から光が差した。
対向車だ。避けようがない。
しかしよく見ると、それは俺がよく知っている車だった。
雨の水滴すらも美しく魅せる、青いボディーと格納式ヘッドライト。そして一度聴いたら絶対に忘れられないロータリーサウンド。
ファイン・オリエンスが乗っている“青龍”のシェデムだ。
まさか、俺を助けに? いやそれはありえない。今俺が危機に瀕していることを知っているのは、他でもない俺だけだ。
するとただ通りがかっただけだろうか? いや、そもそもファインは雨の日には決して走らないはずだ。すると別人か?
様々な思考が脳裏をよぎったが、青いシェデムが車線を変えて加速したことで俺は結論を出した。
味方かは分からないが、敵ではない。
俺と並走している幽霊は、このまま真っ直ぐ行けばシェデムに正面衝突してしまう。ファインはそのためにわざと車線を変えたのだろう。
つまり、これは二対一のチキンレース。
幽霊にとって左は崖、右にはZ、前からはシェデムが走ってきている。
観念して車を停めろ。まだ間に合う。
エネシスとシェデムの距離はどんどん詰まっている。俺はアクセルを抜いて、停まったエネシスがバックしないように後ろから塞ごうとした。
その一瞬だった。
エネシスが急激に加速し、俺を横から通り抜けてすぐさま前に車線変更しようと試みた。
タイヤを滑らせてシェデムが横に飛び出る。
見えた。
「逃がすか!」
俺はZの左前をエネシスの右後ろに引っ掛けるようにして、軽くアクセルを吹かした。
たちまちエネシスはスピンし、コントロールを失う。
ガシャン!
と音がして、ガードレールにぶつかったエネシスは完全に停止した。




